今年で初めての開催から100年目を迎える全国高等学校野球選手権大会(8月6日から開幕)の開会式後の始球式を、ソフトバンクホークス球団会長の王貞治氏が行うことが発表された。まさに節目の年にふさわしい人選といえるだろう。
王氏といえば通算868本塁打を放ち「世界の王」と称された巨人の現役時代はもちろん、巨人、ダイエー・ソフトバンク、そして第1回WBCで侍ジャパンを世界一に導いた監督としてのイメージも強い。しかし、高校時代は投打に渡って甲子園で活躍した素晴らしい高校球児だったことも忘れてはならない。今こそ「早実・王貞治伝説」を振り返ろう。
当初、王(以下敬称略)は「電気技師にさせたい」という父・仕福さんの意向で、墨田川を受験するも不合格となり、早実に進学した。歴史に「もし」や「……ならば」をいえばキリがないが、もし野球部のない墨田川に合格していたら、王の人生、もっといえば日本プロ野球の歴史は、大きく変わっていたに違いない。
早実に入学して野球部の門を叩いた王は、入学直後に大物の片鱗を見せる。投げては、春季都大会決勝の日大三戦に登板し、4−0で勝利して優勝に貢献。打っては、5番打者として醍醐猛夫(元毎日)、徳武定之(元国鉄ほか)ら、後にプロ入りする先輩とクリーンアップを形成した。
夏の東京大会も勝ち進み、決勝は成蹊に快勝して甲子園への切符を早くも手にした。甲子園では1回戦の新宮戦に勝利するが、続く2回戦の県岐阜商戦に先発して1−8で敗退。この後、課題の制球難を克服するために投球フォームをワインドアップからノーワインドアップに変更する。これが王の運命を変える、一つのきっかけとなった。
1957年の春。2年生になった王は、エースとしてセンバツ出場を果たす。ノーワインドアップに変更したおかげで安定感を増した投球をみせ、2回戦で寝屋川を完封。続く準々決勝の柳井戦、準決勝の久留米商戦と、3試合連続完封勝利を記録した。
決勝進出を果たした王は、力投の影響で左手の人差し指と中指を負傷。父・仕福さんが東京から宿舎に駆けつけ、朝鮮人参を包帯に巻きつけて治療したというエピソードもある。
しかし、高知商との決勝戦でも指先からの出血は止まらなかった。指先から吹き出る血でユニフォームやボールを染めながらも、力投を続ける王。8回に3点を失い、連続完封はストップしたものの、5−3で完投勝利。王は優勝投手となり、同校初の全国制覇を達成した。これは関東勢にとって初のセンバツ優勝であり「紫紺の優勝旗が初めて箱根の山を越えた」と話題となった。
その年の夏、早実は春夏連続出場を果たして甲子園へ。2回戦では再び寝屋川と戦い、延長11回を投げ抜きノーヒットノーランを達成。しかし、続く準々決勝では法政二に1−2で敗れ、春夏連覇はならなかった。
1958年春、早実は4季連続となる甲子園に出場。2年生の甲子園では投手として名を上げた王だったが、この春は打者として、その才能を見せつけた。2回戦の御所実戦、準々決勝の済々黌戦と2試合連続で本塁打を放つ。早実は準々決勝で敗れたものの、王の評価はさらに高まっていった。
迎えた夏、早実は東京大会を着々と勝ち進み、決勝戦では同年センバツベスト4の明治と対戦。試合は9回を終えて1−1のまま延長戦に。延長12回表に早実は4点を奪い、甲子園出場をたぐり寄せたが、その裏に5点を失い、まさかのサヨナラ負けで5季連続の甲子園を逃してしまった。
その後、王は巨人へ入団。水原茂監督の助言で打者に専念することとなった。その後の活躍は周知の通りである。
王貞治氏が始球式を務めるこの夏の高校野球。多くの高校野球ファンが期待するのは王氏の母校・早実の甲子園出場だろう。ドラフト候補の捕手・加藤雅樹に1年生の清宮幸太郎と注目選手を擁するだけに、甲子園出場となれば大いに注目を集めるに違いない。そして、もし、早実が開幕戦で戦うことになったら……。そんなことを夢想しながら、夏の到来を待っている。