2014年夏の石川大会決勝、小松大谷対星稜。小松大谷が8点リードで迎えた9回裏、星稜打線が大爆発し、奇跡の大逆転を起こした試合はよく知られている。
しかし、それから1年後の2015年夏。準々決勝の同カードでまたもや奇跡が起こった。星稜の3点リードで迎えた9回裏、今度は小松大谷の打線が火を噴き、逆転サヨナラ勝ち。見事にリベンジを果たした。
下口玲楊主将はジャンケンで勝ちながらも後攻を選択。「やられたらやり返す」という強い意志が結果を呼び込んだ。野球の神様はやはりいる。
1915年に豊中球場で開催された夏の甲子園第1回大会。鳥取中(現・鳥取西)と杵築中(現・大社)の山陰代表決定戦はエピソード尽くしだ。
まずは1913年に開催された山陰大会。米子中(現・米子東)と松江中(現・松江北)のカードで米子中の応援団が木刀や青竹で松江中の応援団に襲いかかり、松江中が試合を放棄して帰る事態が発生していた。
そのため、鳥取対島根の対決は因縁のカードになっており、どちらのホームでやるかすったもんだの議論が起こった末、第1回大会の開催3日前に大阪・豊中球場で行われることになった。
結果は鳥取中が勝利したが、災難に見舞われたのは杵築中ナイン。大阪在住の卒業生が歓迎会を開いてくれたが、そこにあったのは当時の山陰では珍しかった氷水(ジュース)。テンションが上がった部員たちは冷えた飲み物をガブガブ飲み、お腹の調子が悪くなってしまった。
さらに地元では「端午の節句(5月15日)についた餅を食べると武運に恵まれる」という風習があり、試合当日の朝にその餅を食べた。氷水が珍しかった時代に5月5日についた餅を8月15日に食べるとどうなるか……。想像に難くない。
しかし、スコアを見ると8回まで同点の好ゲーム。9回表に鳥取中が3点を勝ち越し、5対2で勝利している。杵築中ナインは最終回まで耐えたということだ。さぞ脂汗が滲んだことだろう。
「勝って兜の緒を締めよ」
その言葉を端的に表す試合が1956年、藤岡と足利工の北関東代表決定戦だ。群馬と栃木の威信を背負い対戦した両校は白熱の好ゲームを展開。延長15回裏、藤岡は2死満塁のチャンスを作り、打球は一塁手を強襲。三塁ランナーがホームに生還し、一塁もセーフ。見事なサヨナラ勝ちを決めた……かに思われた。
大喜びの藤岡ナイン。しかし、一人があることを忘れていた。一塁走者が喜びのあまり、二塁を踏まずに歓喜の輪に加わっていたのだ。
足利工の二塁手がそれに気づき、二塁フォースアウトで試合は続行。藤岡は21回表に勝ち越しを許し、一度は手中にしていた甲子園行きの切符を落としてしまった。
近年、地方大会では打球に飛びついた拍子に足がつるシーンをよく見かける。夏の選手権独特の緊張感とここ数年の酷暑が原因だが、さらに重篤なケースは熱中症だ。
最も惨劇だったのは猛暑に見舞われた2011年7月9日の広島大会1回戦。広島井口対広島工大高の試合はマツダスタジアムで14時46分に始まったが、試合は延長戦にもつれ込む展開に。
灼熱のなか、両軍の選手が次々と熱中症で倒れ、ついに7対7で迎えた13回終了時点で広島工大高の選手が9人を割り棄権試合となった。
広島工大高は8人、広島井口は4人が熱中症で倒れた。広島工大高はベンチ入り20人のフルメンバー。両軍ともにスポーツドリンクや塩分補給など、熱中症対策は万全を期していたなかでの惨劇だった。
当日の広島市内の最高気温は32.3度。この時期には間々ある暑さだが、勝負の場面では気温だけでは測れない要因も多い。その後も熱中症による棄権を余儀なくされるチーム、突然予期せぬ最終回を迎える試合が増えてきている。
もはや根性論や対策で乗り越えられる暑さではなくなってきた。痛ましい事故が起こる前に改善策を検討した方がいいと思うのは筆者だけではないはずだ。
文=落合初春(おちあい・もとはる)