前々回、「運命のアーチ」
前回、「仙台育英へ」
楽天との競合に勝ち、ロッテが西岡剛以来となる「高卒内野手1位指名」で超高校級の遊撃手を獲得。走攻守に才能を見せ、1年秋から仙台育英のレギュラーをはってきた男は小学校入学前から異彩を放っていた。
優勝候補としてのぞんだセンバツ大会は敦賀気比(福井)に敗れ、2回戦敗退。夏こそは、と思いを強くしていたときだった。
6月5日の東北大会初戦。2回の第2打席で平沢は右足小指に死球を受けた。「立っているのがやっと」という痛みに堪え、試合に出続けた。8回にはタイムリーを放ったが、チームは敗れた。その日のうちに宮城に戻り、病院で検査をすると右足小指に2本のヒビが。人生初の骨折だった。
仲間がグラウンドを駆けているとき、平沢は肺活量を落とさないようエアロバイクを漕いでいた。室内練習場の7メートルほどのロープを1日10本、上り下り。「羨ましいっす」と、練習試合を見つめる背中は寂しそうだったが…。
「今思えば、ケガをしてよかったです。あの期間で身体が大きくなったし、力がついた。野球、やりたかったですけど、焦りはなかったし、ケガが治れば打てると思っていました」
骨がくっつくまでのひと月を無駄にはせず、復帰戦で本塁打を放ってみせた。
復帰戦こそ、本塁打を放ったが、ひと月、投手の球を打てなかったのが影響したのだろう。宮城大会で放った安打はわずか3本だった。それでも、その3本がタイムリーだったこと、そして、走者がいるときに犠飛を打ったことでチームトップタイの8打点を稼いだ。
甲子園開幕まで時間があったので、佐々木監督は「ラインで打つように」とアドバイスした。平沢はボールを上から叩くイメージを強く持ちすぎていたため、スイングの軌道を修正させたのだ。
そして、甲子園。初戦の初回にいきなり本塁打。「あれで吹っ切れたと思う」と佐々木監督。準々決勝、準決勝でもアーチを描いた。いずれも、左腕からのホームランで、強烈なインパクトを与えた。チームもトントン拍子で勝ち上がり、いよいよ"白河の関越え"なるかと期待は高まったが、東海大相模の前に涙を飲んだ。
その後、U-18日本代表入り。遊撃手となり、クリーンナップを務めた。決勝ではチャンスで打てず、「満塁で打っていれば…」と責任を感じているが、木製バットを苦にしなかったことや守備での無失策は、評価を高めた。
ドラフトでは、10月上旬に1位指名を明言していた地元・楽天と、ドラフト直前で1位指名する可能性が出てきたロッテの2球団が、実際に競合した。そして、伊東勤監督が残りくじを引いて、交渉権を獲得した。
「8割は楽天(だけから指名されるもの)だと思っていたので、まさか、競合なんてビックリ。でも、どの球団でもいいと思っていたし、指名がないのではないかとも思っていたので、嬉しかったです」
ロッテでは、2002年の西岡剛以来の高卒ドラフト1位内野手。指名翌日には、伊東監督が直々に指名挨拶に訪れ、期待度の高さを伺わせた。その伊東監督は、ドラフト会場から「将来的には野球界を背負って立つスーパースターになると思います」とメッセージを送っている。そうなる日が必ずくるに違いない。そう思わせるだけの才能を平沢は持っていると信じている。
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)