野球ファンのなかには、この「甲子園の黙祷」によって8月15日であることを思い出す人も多いだろう。
この黙祷が恒例となったのは1963(昭和38)年の甲子園大会から。だが、振り返るとそれ以前から、8月15日と甲子園には浅からぬ関係性があった。
終戦からちょうど1年後、1946年8月15日こそ、戦争激化によって1941年以降中止されてきた夏の全国大会が復活した日、であるからだ。もっとも、甲子園球場は当時GHQが接収していたため、西宮球場での復活開催だった。
野球が日常に戻って来た、といっても、当時はまだ日本中が物資不足のとき。どのチームもボールもない、バットもない、さらには食料もない、というないもの尽くし。ボールは破れても縫い合わせて使い、バットは折れた箇所にテープを巻いて再利用。ユニフォームは戦前のモノを真似て選手が自作するなど、各チームが苦労の上に工夫を重ねて対処し、なんとか野球がプレーできる状態だった。
また、全国から選ばれた代表19校は、米などの食料を持参して大会入り。勝ったチームは滞在期間が長くなって食料が底をつくことを心配するなど、現在では考えられない状況で大会は行われた。
戦後71年。後世を生きる我々は、こうした先人の苦労があって今、普通に野球ができることを忘れてはならないだろう。
さて、「甲子園の黙祷」以外にも、8月15日に思い出したい野球の碑が東京に存在する。
東京ドームと、人気温浴施設・ラクーアをつなぐ陸橋。その下を通る歩道脇にある石碑のことだ。「鎮魂の碑」と刻まれたこの石碑は、戦争に散華した野球選手の霊を慰めるため、1981年4月、旧後楽園球場脇に建立。1988年3月、東京ドームの完成にともない、現在の場所に移設された。毎年、8月15日の終戦記念日前後には、碑の前に季節を飾る花々が献花される。
石碑のひとつにはこんな文字が刻まれている。
《第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵(せんじん)に散華(さんげ)した選手諸君の霊を慰めるため、われら有志あいはかりてこれを建つ。有志代表 鈴木龍二》
鈴木龍二とは、建立当時のセ・リーグ会長。この石碑の建立がひとつの悲願だったという。
鎮魂の碑に祭られた選手は、日本プロ野球の草創期にその青春を燃やし、運命に翻弄された若者たち73名。有名な選手としては、日本人初のノーヒッターにして巨人軍初の永久欠番である伝説の投手・沢村栄治、阪神ファンの間では「零代ミスタータイガース」と呼ばれ、打点王・首位打者に加えて最優秀防御率も獲得した元祖二刀流・景浦将などがいる。
沢村栄治と景浦将、といえば、1936年12月、日本プロ野球史上初の王座決定戦、いわゆる「洲崎3連戦」で死闘を演じた巨人と阪神(当時は大阪)、それぞれのエースと主砲としてライバル関係にあった二人だ。
巨人はこの3連戦でエース・沢村が3連投。2勝1敗で阪神を退け、初代王者に輝いた。この「洲崎3連戦」の死闘ぶり、沢村と景浦の一騎打ちが講談や漫才の題材としても取り上げられたことで世間の話題となり、巨人対阪神が「伝統の一戦」と呼ばれるようになった、ともいわれている。
「鎮魂の碑」を通して、そんな日本プロ野球草創期の歴史を振り返るキッカケとしてもいいのではないだろうか。
そして最後にもうひとつ。「鎮魂の碑」には、祭られている選手のひとり、石丸進一の遺書の一節として、次の言葉が刻まれている。
《野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない》
8月15日。日本人として忘れてはならない大切な日だからこそ、野球があることの幸福をかみしめる1日としたい。
文=オグマナオト