南海一筋で、監督として戦前から戦後にかけ11回もの優勝を果たした鶴岡一人。それだけでなく、野村克也、広瀬叔功、大沢啓二、杉浦忠らを一流選手に育て上げた功績も大きい。また、日本の各エリアにスカウトを常駐させたり、新聞記者をスコアラーとしてチームに招へいするなど、先進的な取り組みを行ったことでも知られる。2000(平成12)年3月7日、心不全のため83歳で死去。