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第16回 「WBCなんでも選手」名鑑

「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第16回のテーマは、「WBCなんでも選手」名鑑です。

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 各球団が3月29日のシーズン開幕に向けて準備を進めていますが、その前に2013 WORLD BASEBALL CLASSIC(WBC)がやってきます。2009年以来4年ぶりに開催される野球の国別世界一決定戦は、3月2日にアジアで、8日に北中米で第1ラウンドが開幕。3月20日に決勝戦が行われる予定です。今回は過去2大会で記憶に残った選手たちで名鑑をつくります。(日程はすべて日本時間)

王貞治日本代表監督(06年)

 第1回WBCの日本代表候補に王監督(当時ソフトバンク)の名前が挙ったのは、2005年の9月。翌10月のはじめにはすんなりと就任が決まった。未知数な部分も大きかった新大会に向け、球界最高のカリスマが先頭に立つことで、メディアやファンの大会への関心は高まった。しかし、シーズン開幕前の調整を優先させる選手も多く、期待された日本人メジャーリーガーの代表招集はままならず。王監督もチーム編成には苦労した。
 大会が始まるとアジアラウンド、2次ラウンドで韓国代表に連敗したショックが日本人のナショナリズムを刺激する。野球ファンを越えて社会的な注目事になると、代表と代表を率いる王監督への期待は一気に重いものに。僅差で決勝ラウンド進出を決めると3度目の韓国戦に勝利。その勢いでWBC初代優勝国となった。国際大会では長く頂点に立てず、また04年の球界再編問題で人気低迷をささやかれていたプロ野球を再評価する声が広がった。
 2次リーグでは誤審に対し「野球のスタートした国であるアメリカで、こういうことがあってはいけない」と冷静に抗議するなど、王監督のベンチでの品位あるたたずまいも好感を持って受け入れた。開催国アメリカではどの選手よりも王監督に取材が集まっている状況も伝えられ、現役時代を知らない若い世代にも「世界の王」が特別な存在であることを認識させる機会となった。
 王監督は08年を持って1995年から務めたソフトバンク(ダイエー)の監督を勇退。その後はソフトバンクの会長としだけではなく、NPBサイドの人間としてWBCの度に監督や代表選手の選考に調整役として登場するようになった。国民とってWBCといえば真っ先に名前の挙がる1人になっている。

[王貞治 チャート解説]


 選手選考には苦労したが、折り合いをつけ「スモールベースボール」に必要な選手を集め機能させた。モチベーション管理にも成功。「プレー(采配)」は4。声高に日の丸を意識した発言はなかったが、現役監督ながら代表監督に就任したのは球界発展への思いの表れ。静かに燃やした「愛国心」は5。WBC優勝以降、NPBの王監督頼みは加速。“王コミッショナー”待望論すら。「転機」は4。

「プレー(采配)」文字通りグラウンド上での働きで印象を残したか。「愛国心」は祖国を背負うことをいかにモチベーションに高めていたか、「転機」は大舞台でのプレーを次のステップにつなげたかどうかを5段階評価したもの(以下同)。


イチロー(06、09年)

 2006年の第1回WBCは松井秀喜(当時ヤンキース)や城島健司(当時マリナーズ)、井口資仁(当時ホワイトソックス)らメジャーリーガー勢の出場が期待されたが、辞退が相次いだ。そんな中出場を決めたのがイチロー。32 歳となるこの年まで国際大会へは不参加を貫いていたが、尊敬する王監督からの打診に応え代表に名を連ねた。イチローはWBCを国と国が威信をかける大会であるという点を強く意識し、隣国のライバル・韓国に「30年間は日本に手を出せないと思わせたい」と挑発。試合では闘志むき出しでプレーし、敗れると人目をはばからず悔しがった。また、日本時代はあまり見られなかった率先してリーダーシップをとる姿もファンのイチローへのイメージを変えた。09年も再び代表に選出。変わらぬモチベーションの高さを見せた。イチローはアメリカでプレーするようになり、日本人であることを強く自覚するようになったと言われている。WBCで見せた闘志はそういった変化ともつながっているのかもしれない。
 プレーでは06年、09年ともにややスロースターターで、アジア(東京)ラウンドや2次ラウンドではなかなか完全なプレーができなかった。しかし最後には調子を上げ決勝戦では活躍。06年のキューバ戦では2安打、09年の韓国戦では延長10回に決勝タイムリーを放った。09年は強烈なプレッシャーの中で打席に立ち続けるストレスから胃潰瘍を発症。WBC閉幕直後に故障者リスト入りした。イチローがいかに代表に強い思いを寄せていたかがわかる出来事も起きている。

[イチロー チャート解説]


2大会トータルで24安打。打率も.364。波はあったが試合の重要度が高まるにつれ存在感を高めていった。「プレー」は5。国と国との戦いであることを常に意識。クールでチームの輪からは離れがちだった日本時代とは別人の日の丸へのこだわりを見せた。「愛国心」も5。WBCで活躍しチームに帰ってからも変わらぬパフォーマンス。ただWBCを通じ変化したイチローへのイメージは、引退後の指導者としてのオファーを増やしそうではある。「転機」は4。


金泰均(06、09、13年)

 2006年は李承?(イ・スンヨプ、現サムスン)の控えで出場機会に恵まれなかったが、金泰均(キム・テギュン、現ハンファ)は李承?が辞退した09年は9試合に出場。10安打3HRと長打力を発揮し韓国を準優勝に導いた。
 この年日本と韓国は5回も戦っているが、最初の試合は東京(1次)ラウンドのゲーム4。この試合4番に入った金泰均は、1回裏に松坂大輔(当時レッドソックス)からレフトへ2ラン。次の対戦となった同ゲーム6でも、岩隈久志(当時楽天)、馬原孝浩(当時ソフトバンク)から安打を放つ。岩隈から放った三塁線を破る安打はこの試合両チームを通じ唯一のタイムリーとなり、韓国はリベンジを果たした。
 日本との3度目の戦いは第2ラウンドのゲーム4。金泰均は初回に無死満塁で打席を迎えるとダルビッシュ有(当時日本ハム)から押し出し四球を選び先取点を奪ったほか、3回にはレフトへヒットも放っている。この試合も初回の得点が効き韓国が勝利した。4度目、5度目の対戦(同ゲーム6、決勝戦)は無安打に終わり韓国も日本に敗れた。結局日本戦では18打数4安打3打点1HRと抑えられはしたが、きわどい場面での勝負強さを発揮した。強打者の居並ぶ一塁手ながら大会では満票でベストナインにも選ばれた。そうした実績が認められ2013年も韓国代表に名を連ねている。3大会連続出場を果たす可能性が高い。
 第2回大会の翌シーズンとなる2010年はロッテでプレー。1年目は6月までに18本塁打の活躍を見せたがその後低迷。2年目はシーズン途中で腰痛を治療するため帰国。3年契約を結んでいたがそのまま契約解除となった。12年は古巣ハンファでプレー。打率.363を記録し首位打者になっている。

[金泰均 チャート解説]


 日本戦では抑えられる場面もあったが、09年韓国代表の得点力の要だった。「プレー」は4。祖国への愛情の強い韓国代表の選手の中にあって、日本の投手陣のレベルの高さを称えることも。「愛国心」は4。英雄である李承?に替わって存在感を発揮したWBC翌年、FAで海外(日本)へ移籍。長期間のプレーはできなかったが、WBCで評価を高め移籍の機会とした「転機」は5 。まだ30歳と若く、今回のWBCでの活躍次第では再び移籍する可能性もゼロではない。


その他WBCで記憶に残る選手・監督・関係者

原辰徳日本代表監督(09年)

 2009年の代表監督は前大会の殊勲者イチローの「WBCは北京のリベンジの場ではない」発言などが響き、規定路線だった星野仙一氏が辞退。迷走の後、この年の優勝監督へと絞られていき、10月末に巨人の原辰徳監督の就任が決まる。
 監督経験は5シーズンと経験はなかったが、不振のイチローを1番で使い続けるなど選手を信じきる起用で2連覇を達成。「目指す港はただひとつ!」「も〜本当に、お前さんたちは強い侍になった」など独特の言語感覚も話題に。

松坂大輔(06、09年)

 06年、09年ともに3勝を挙げ2大会連続でMVPを獲得。通算6勝はWBC最多。防御率も06年が1.38、09年は2.45とよく抑えた。しかし、WBC2連覇直後のシーズンとなる09年以降は4年で17勝と低迷。ヒジの手術も経験した。13年の代表入りも逃し連続MVP記録は途絶えてしまった。

ダルビッシュ有(09年)

2009年の第2回大会で代表入り。前年の北京五輪で通用せずそのリベンジを狙った。5試合14イニングに登板し2勝1敗、防御率2.08。最多の20三振を奪い、海外でも十分投げられることを改めて証明した。当時そこまで海外指向を口に出していなかったダルビッシュにとってWBCは転機となったと見られる。

WBC後世界へ川?宗則(06、09年)青木宣親(06、09年)岩隈久志(09年)中島裕之(09年)

 WBCで注目を浴び、その後メジャーに挑戦した選手は松坂、ダルビッシュ以外にも多くいる。2006年、2009年と連続で出場した川?と青木は、06年は不調だったが09年はよく打ち、両者ともに2012年にメジャーでプレーするチャンスを得た。なお、川?の“イチロー信仰”はこの2大会を共にしたことから深まったのだろう。岩隈は2009年に20イニングを投げ防御率1.35、中島は22打数8安打、OPSで1.062を記録するなどのインパクトを残した。他にも福留孝介(当時中日)、岩村明憲(ヤクルト)、上原浩治(当時巨人)、和田毅(当時ソフトバンク)、西岡剛(当時ロッテ)らがWBC後に海を渡っている。

マウンドに太極旗奉重根李晋暎

 奉重根(ポン・ジュングン)は投手として高卒で直接MLBに進み1998年から2006年までプレー。06年、09年に韓国代表入り。09年は日本戦に3度先発し2勝。日本を苦しめた。大会通算でも17.2イニングを投げて防御率は0.51(自責点1)と好投した。13年はケガで代表入りならず。
 李晋暎(イ・ジンヨン)は06年、09年に韓国代表入りした外野手。イチローの発言に苦言を呈し、日本への対抗心をあらわにし日本戦でも活躍した。
 09年の2次ラウンド・ゲーム4で日本に勝ち、決勝ラウンド行きを決めると両者はマウンドに太極旗を立てるパフォーマンス実施。日本のファンから強い批判を浴びた。

ボブ・デービットソン

 選手や監督と同等にファンの印象に残った人物といえば、2006年の2次ラウンドで日本vsアメリカの試合で主審を務めたこの人。3対3で迎えた8回表、1死満塁で岩村明憲(当時ヤクルト)の外野フライで西岡剛(当時ロッテ)タッチアップしてホームインした。これにアメリカが離塁が早いとアピール。三塁塁審は認めなかったが、デービットソンはこの判定を翻しアウトを宣告。日本代表に勝ち越し点は認められず、逆に9回裏にアレックス・ロドリゲス(ヤンキース)のサヨナラ打を浴び日本は敗れた。
 デービットソンは同じく2次ラウンドのメキシコとアメリカの試合でもフライで飛び出したアメリカの走者をめぐるプレーでアメリカ有利の判定を下した。さらにメキシコ代表の打者が放ち、ポールに当たった打球を二塁打とする不可解な判定を下し、問題となった。

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 時間を経てしまっているので、強く記憶に残っている韓国との胃の痛くなるような試合、不可解な判定などを思い出しがちですが、これ以外にも多くの出来事がありました。
 日本人選手では、WBCをピークにケガなどで姿を消してしまった選手も記憶に残っています。06年に大会中に故障しそのまま復活できず現役生活を終えた石井弘寿(当時ヤクルト)。08年にエース級の活躍を見せ代表に選出されるも、大会後低迷した小松聖(オリックス)などはWBC出場と低迷の関係性は確かではありませんが、春先に大会を実施する難しさを感じずにはいられません。
 またメジャーリーガーが参加できる国際大会らしく、出場してきたロジャー・クレメンス(当時アストロズ)やアレックス・ロドリゲス(ヤンキース)らスター選手たち(いずれも06年)も華々しかったですし、規格外の選手を連れてくるキューバからは、後に人類最速となる169km/hを記録するアロルディス・チャップマン(09年)が出場。日本戦に投げることになり警戒されたこともありました。先日マリナーズと7年総額1億7500万ドル(約163億円)の大型契約を結んだフェリックス・ヘルナンデスの好投でベネズエラの4位入り(09年)なども印象深いものでした。
「最強チームが出てこない」などと言われることもあるWBCですが、一定の才ある数年後のスター選手が出場し、その才能の片鱗を見せていることは間違いありません。WBCを国と国の威信をかけた戦いとして観戦するのもいいものですが、将来を高い確率で約束されている選手たちのショーケースとして、じっくり楽しむこともできるコンテンツなのだと思います。

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