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第9回 「“自由契約”から這い上がった選手」名鑑(野手編)

 「野球なんでも名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第9回のテーマは、「“自由契約”から這い上がった」選手の名鑑(野手編)です。

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 今回も“自由契約”という苦難を乗り越え、もうひと花咲かせた野手を紹介します。先日の12球団合同トライアウトには野手では、佐伯貴弘(前中日)や球界を離れていた古木克明(元横浜ほか)らが復帰を目指し参加。注目を集めましたが、残念ながら彼らの合格通知は今のところ届いていません。一方、イタリアのプロチームから契約解除されロッテの入団テストを受けたG.G.佐藤(元西武ほか)には合格の報道。復活への挑戦権を手にしています。役割に幅がある投手に比べ、野手は戦力外通告からの復活が難しい印象があります。特に加齢で守備に不安があると見なされた場合、与えられるのはDHや代打といった限られた役割になりがちです。ただ、厳しい条件の中で遂げた復活は、華々しいものが多いようにも感じられます。

山?武司(中日-楽天-中日)
 長距離打者は仕上がるまで時間がかかるとよく言われる。負荷の大きい捕手というポジションで起用されていたこともあり、山?も高卒でプロ入りしてから約8年はレギュラーを奪えなかった。だが、捕手から野手にコンバートされ、28歳となった9年目に16本塁打。その翌年は同僚の大豊泰昭、松井秀喜(当時巨人)を抑え39本塁打でタイトルを獲得する大ブレイク。打率.322、打点107と爆発した。その次の年、中日は本拠地をナゴヤドームへ移したが、広い球場でも山?は長打力を発揮。95年から7年間続けて2ケタ(平均約25本)本塁打を放った。ただ癖のあるキャラクターで首脳陣との衝突は絶えなかった。01年オフには評価に納得できずFA宣言。結局残留したがしこりを残す。そして02年に中日の監督が山田久志に替わると不調に陥り、冷遇される。同年オフにオリックスへ放出された。オリックスでも伊原春樹監督と衝突し試合をボイコットする事件などを起こし、2シーズンで自由契約となった。
 問題児(といってもこの時点で36歳だったが)山?に手を差し伸べたのが新設球団の楽天だった。移籍初年度、シーズン中盤より調子を上げると、4番に座り25本塁打。野村克也監督に代わってからも長打力は健在で、加入3年目の07年には自己最多の43本塁打でタイトル獲得。楽天には7年在籍したが、すべてのシーズンで2ケタ本塁打。平均約27本と中日時代を超える活躍を見せた。43歳となった11年限りで楽天から放出されたが、古巣中日に復帰し現在も現役続行中。

[山?武司・チャート解説]

オリックスからの解雇は、実力に対する評価を落とした結果ではない。チームの秩序などを考えたものだろう。低迷度は3。ただ、そうだとしても翌年以降の活躍は年齢的にも驚きに値する。豹変度は4。復活がチームを優勝に導くことはなかった。投手力というチームの競争力が確立されるまでの期間を攻撃力で支えたことは間違いない。09年のチーム史上初のCS出場も山?なくしては不可能だったはず。貢献度は4。

チャートは、自由契約になった際のどれだけどん底状態にあったかの「低迷度」、自由契約を経ての復活劇に際しての「豹変度」、その活躍がチームの好成績に果たした「貢献度」を5段階評価したもの(以下同)。

山本和範(近鉄-南海・ダイエー-近鉄)
 高卒で入団した近鉄では6年在籍。しかしファームでは好成績を残すも1軍では47試合で6安打、1本塁打と芽が出ず。82年に自由契約となった。一旦は引退し故郷に帰ることを決心したが、山本はチームメイトに引き留められる。バッティングセンターでアルバイトしながらオファーを待つと、自由契約から1カ月後、南海の監督だった穴吹義雄よりオファーが届き、入団が決まる。ほかにも山本の才能を惜しみ再契約の道を模索していた関係者は多かったという。
 才能を開花させたのは南海加入2年目の84年。27歳の山本は115試合に出場し16本塁打。125安打を放ち打率.306の成績を残す。南海は89年に身売りしダイエーとなるが、山本はレギュラーとしてプレーを続け、球団の顔となった。新しい本拠地となった福岡出身であることから人気も高かった。
 しかし95年、38歳となった山本はケガで低迷。高年俸だったこともあり、オフには整理の対象となる。2度目の自由契約を通達された山本は入団テストを受け、古巣・近鉄への復帰を決める。96年は佐々木恭介監督のもとで出場86試合ながら14本塁打を放ち存在感を発揮。いてまえ打線の一角を担った。さらにファン投票で初出場を果たした球宴では、決勝アーチを放ちMVPに。近鉄、南海、そして強豪化する前のダイエーと、古き良き、そして地味だった“パ”を象徴するチームを盛り上げた男を、最後にスポットライトが照らした。

[山本和範・チャート解説]

 ウエスタンリーグでの活躍が再契約につながる“蜘蛛の糸”となったものの、6年で6安打という1軍成績は厳しい現実。単にチャンスがもらえなかっただけなのか、才能が発揮できない何らかの理由があったのかは不明だが低迷度は4。バッティングセンターでのアルバイト期間を経てホークスの顔となる活躍は素晴らしいものだが「じわじわ」きた印象。豹変度は3。南海、ダイエー、近鉄ではチームの優勝争いとは縁遠かった。人気面は別にして貢献度は3。

小早川毅彦(広島-ヤクルト)
 大卒での入団ということもあり、小早川のプロ入り初年度は順風満帆だった。112試合に出場しクリーンナップとして16本塁打。打率も.280を記録し新人王を獲得した。その後2ケタ本塁打を7年続け、一方でアベレージも高く打率は2割後半を維持。本塁打の印象が強いが中距離打者として80年代後半の広島を支えた。87年には法政大の先輩である江川卓(巨人)に引導を渡すサヨナラ弾を放ったことでもよく知られる。
 だが、90年代に入り小早川が30代に差しかかると、自身の成績が少しずつ落ちていく。さらには江藤智、野村謙二郎、前田智徳、緒方孝市、金本知憲など新世代のスターが次々登場。彼らがポジションを埋めていった結果、小早川の守る一塁は外国人枠の使いどころになっていった。そして96年オフ、フロント入りを打診されたがこれを断って自由契約に。小早川は35歳になっていたが、完全燃焼すべく現役続行を希望した。これに応えたのが当時ヤクルトを率いていた野村克也監督だ。翌97年の開幕戦には、この年大補強を行った巨人とは対照的な、「戦力外選手」小早川をクリーンアップ(5番)に据えて臨んだ。すると小早川は、巨人の絶対的なエースだった斎藤雅樹から3打席連続本塁打。しかも真っ直ぐ、カーブ、シンカーを打ち抜く芸当までやってのけた。ヤクルトではこの年を入れて3年プレー。ただし、1年目こそ116試合に出場したがその後はほぼ控え。言ってしまえば「3連発」はロウソクの最後のともしびだった。だが、現役にこだわった野球エリートが見せた最後の“足掻き”は、多くのファンの心に残った。

[小早川毅彦・チャート解説]

 広島での最後のシーズン96年はわずか出場8試合。8打数1安打。大学でも1年生から4番を打ってきたエリートにとって「野球ができない1年」はさぞ悔しかったはず。低迷度は4。その翌年ユニフォームを替えて臨んだ最初の試合で開幕戦3連発。強烈なインパクトを与えシーズンに入ったがシーズン通算は12本塁打と最初の試合ほどのインパクトはない。豹変度は4。小早川が入団した97年、ヤクルトは日本一に輝いた。ホージーや古田敦也らとクリーンナップを打った小早川の貢献は大きい。日本シリーズにも2試合で先発出場。貢献度は5。


その他の「“自由契約”から這い上がった」選手(野手編)

中村紀洋(近鉄-ドジャース-オリックス-中日-楽天-DeNA)
 中村が自由契約となったのはオリックス時代(06年オフ)、楽天時代(10年オフ)の2度。オリックスから解雇された際は2億円から8000万円(推定)への年俸ダウンを受け入れなかっため。育成契約で拾われた中日では2年で270試合に出場し打率.283、44本塁打、151打点と復活した。楽天時代は2年目に129試合に出場し打率.266、13本塁打と好成績だったが不可解な戦力外通告。再び手を差し伸べた横浜(DeNA)では、2年目の今年、126試合に出場し打率.274、11本塁打と存在感を見せた。低3/豹4/貢3

宮地克彦(西武-ダイエー・ソフトバンク)
 14年在籍した西武では、02年に100試合に出場し打率.267を残したほかは結果を残せなかった。ケガもあり03年を最後に西武から自由契約となる。現役続行を目指しトライアウトや入団テストを受け続けるも声はかからず。台湾でのプレーも視野に入れていたが、村松有人のFA流出が決まったダイエーからオファー。入団後は、突如力を示し、2年で205安打を放った。特に2年目は初の規定打席到達と3割超えを達成。低4/豹5/貢4

鈴木健(西武-ヤクルト)
 黄金期突入前夜の87年、西武がドラフト1位で指名した黄金ルーキーだった鈴木は西武で15年プレー。だが02年には出場機会を失い、チームからは事実上戦力外選手と見なされた。そこに長距離打者を求めていたヤクルトが金銭トレードを申し入れ移籍が決まる。すると翌年、135試合に出場し打率.317、本塁打20本、95打点という自己最高の成績を残した。翌年も125試合に出場し.289、15本塁打、65打点と一定の活躍を見せた。ヤクルトでは5年間プレー。低3/豹5/貢3

辻発彦(西武-ヤクルト)
 93年に首位打者を獲得した辻に対し、その2年後の95年のオフ、球団はコーチ就任を打診する。これを拒否した37歳の辻は自由契約となりヤクルトへの入団が決まる。移籍1年目の96年、少し衰えの見えていた打撃が復調。.333の高打率を記録しセの打率2位となる。この年は球宴に出場した。ヤクルトには4年間在籍し41歳までプレー。低3/豹4/貢3

森岡良介(中日-ヤクルト)
 02年にドラフト1巡目指名を受け、高卒の期待の素材として中日に入団。成績を残せないまま、コーチとの確執などが原因で08年に自由契約になる。しかし26歳という若さもあって合同トライアウト後にヤクルトが指名。翌年、開幕をキャリア初となる1軍で迎えると少しずつ出場機会を増やしていく。現在は内野のバックアップメンバーとして存在感を大きくしている。今年は100試合に出場した。低4/豹3/貢4

石井義人(横浜-西武-巨人)
 確実性の高い打力を持ちながら、守備に難があり横浜では出場機会を得られなかった石井。02年のオフにトレードで西武に移籍する。西武では打力を発揮する機会に恵まれ、05年には首位打者争いにも絡んだ。在籍9シーズンの通算打率は.292と安定したバッティングを見せてきた。しかし加齢もあり出場機会を失うと、2011年オフに自由契約に。合同トライアウトを受けると巨人よりオファーが届き、再びセ・リーグへ。巨人では主に代打としてプレーし、代打の打率は4割に及ぶ勝負強さを見せた。今年のCSではサヨナラ安打を放ちシリーズMVPを獲得。低3/豹4/貢4

畠山準(南海・ダイエー-横浜)
 一世を風靡した徳島県・池田高のエースとしてプロ入りするも投手としては大成せず、6年目の88年に野手転向。それでも目立った成績は残せず、田淵幸一監督から戦力外と見なされる。野手転向から3年を経た90年に自由契約になった。しかし大洋の入団テストに合格し現役続行。すると3年目の93年にレフトのレギュラーの座をつかむと125試合に出場。打率.281、14本塁打と活躍し、球宴出場を果たした。翌年も3割に近いアベレージを残している。ベテランとして迎えた98年には右の代打として活躍。チームの日本一に貢献した。99年オフに再び戦力外通告。現在は球団職員として働いている。低4/豹3/貢4


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 いくつかの印象的なパターンがありそうです。1つはエリートとしてキャリアを築いてきた選手が、自由契約という屈辱を経て、異なる環境で輝きを見せたパターン(小早川毅彦、辻発彦、鈴木健など)。もうひとつは、鳴かず飛ばすのまま長らく2軍でプレーした選手がいよいよクビを切られ、必死の“就職活動”の末に見つけた新天地で、見違えるように打ち出すパターン(山本和範、宮地克彦、畠山準など)。そして実力はあるのに、チームとの関係を悪くして放出され、新天地で実力を発揮しなおしたパターン(中村紀洋、山?武司、森岡良介など)もあります。
 彼らのような選手が毎年注目を浴びるのはなぜでしょうか。それを考えると、FA導入後、年俸の急上昇が当たり前となり、いきなり突きつけられる「自由契約」という現実とのコントラストが強まっていることが関係している気がします。何億円ものギャランティをもらっていた選手が、ある日突如「無職」になる――。「光と影」が生み出す悲哀や共感が、自由契約にまつわるドラマが人をひきつけているのではないでしょうか。

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