即戦力投手が最重要ポイントのロッテが、大学生内野手を1位指名。それほど「ほしい」と思わせた好選手は、都市対抗出場歴のある父親に幼少から基本を教えられ、早稲田大主将を務めるまでに成長したという。
事前の報道では「外れ1位」はあっても、本指名での1位はないだろうと言われていた。
しかし、ふたを開けてみれば、ロッテの単独1位指名。ピッチャーのコマ不足に悩むチーム事情から考えれば、即戦力のピッチャーを優先すべきところだが、それ以上に早稲田大・中村奨吾の評価が勝った。
11月7日付のデイリースポーツに、林信平球団本部長のコメントが掲載されていた。
「通常ならば投手を優先するところだが、それを抑えてでも取りたい野手がいたということ」
大学2年春からセカンドを守っているが、天理高時代は外野とサード、大学3年時に選ばれた日米大学野球ではセンターのポジションにもついており、ユーティリティー性も高い。加えて、右投げ左打ちではなく、右投げ右打ちということも、プラスの評価につながったのだろう。
中村は天理高で3度の甲子園出場を果たし、早稲田大では2年春からレギュラーを獲得。最上級生となった今年はキャプテンまで務めた。リーグ戦の通算安打は94本。4年春は野球人生で初めてと言ってもいいような大きなスランプに陥り、打率.239と低迷したが、ロッテの高い評価は揺らがなかった。
最大の特徴は走攻守に大きな弱点がないこと。いずれも高いレベルでまとまっている。パンチ力とミート力を兼ね備えたバッティング、50メートル6秒2の脚力、そして堅実な守備と正確性の高いスローイング。
社会人チームが好むタイプのようで、実際、中村のもとにはいくつかの強豪チームから誘いがあった。「お願いします!」と言えば、問題なく内定をもらえる状況だったが、中村はすぐには返事をしなかった。
「4年生になる時に、『春の結果を待ってください』と伝えておきました。実際、春の結果はよくなかったんでどうしようかなと思ったんですけど、中途半端な気持ちで『プロに行きたい』『でも、社会人もあるかな』と思っているのはよくないこと。社会人に断りを入れて、最後の秋にかけてみようと決めました」
勝負の4年秋、決して状態はよくなかったが、立教大3回戦では延長11回に意地の決勝タイムリーを放った。「ここで打てなかったら仕方がない。何も考えずにいった」。モヤモヤしていた思いをすべて吹っ切って、無の状態で臨んだ。
だが、勝てば優勝が決まる慶應義塾大2回戦では、4打数0安打3三振。第1打席では高めのつり球に手を出し空振り三振、チャンスで迎えた第3打席では、2球で追い込んでから3球勝負を挑んだ三宮舜のクロスファイアーに手が出ず、見逃し三振に終わった。
リーグ最終戦となった翌日の3回戦は5打数3安打と結果を出したが、本人には「もっと早く打っていれば」という思いが強い。悔しさの残る大学ラストシーズンとなってしまった。
毎週末、神宮球場のスタンドから中村のプレーを見守っていた人がいる。父・優仁さんだ。
天理高の出身で、高校時代は2年夏に3番レフトで甲子園出場。卒業後、電電近畿(NTT西日本)に進み、住友金属と大阪ガスの補強選手として、都市対抗に2度出場している。
「小さい頃から父親にずっと教えてもらっていて、高校の時もいつもアドバイスをもらっていました」
中村のバッティングを誰よりも知っている人である。昨年から東京で単身赴任生活を送っているため、毎週末に神宮球場に足を運んでいる。その神宮通いも、今秋を持って終わりとなった。
「4年春の時に比べたら、この秋の状態はそこまで悪くはなかったと思います。タイミングの取り方、ポイントまでのバットの出し方は、春よりいいですよ。状態が悪くなると、肩の開きが早くなるんですが、今年の春はそれが見えた。あとは研究されてきて、持ち味である思い切りのよさが出せなかったのもあると思います」
小学生、中学生の時は、息子が所属するチームでコーチを務めていた。小さい頃は、家のなかで丸めた新聞紙をボール代わりに、カーテンをネット代わりにして、バッティング練習をしていたという。といっても、スパルタではない。中村曰く、「父から『練習しろ』と言われたことはない」という。
優仁さんが、小さい時から教えていたのは、ボールの見方だ。
「右バッターでいえば右目でボールを見ようとすると、どうしても開きが早くなってしまう。はじめは左目でボールを見て、最終的には左目から右目にボールを通すように見る。感覚的な話になりますが、そんな教えをしていました」
社会人まで本格的に野球に取り組み、そこで培ってきた知識や考えを伝えていた。
高校時代にはこんなエピソードがある。優仁さんが土日の試合を見たあと、気になったことをメモに残し、それを野球部の寮の下駄箱に入れていたのだ。1週間後、また試合を見に行き、気付いたことがあればメモを書く。寮生活を送っていた我が子と、会って話をする時間がなかなか取れなかったのだ。
「毎日見ているわけではないので、難しいことは書いていません。小さい頃から伝えていた基本の部分だけです。ボールの見方、タイミングの取り方、トップからインパクトまでのバットの出し方…。アゴが上がっていると感じれば、そんなことを書いて、下駄箱に置いていました」
パソコンや携帯電話が当たり前の世の中で、下駄箱へのメモというのが何だか趣がある。
息子の成長過程を誰よりも知っている優仁さんが、「大学で一番伸びた」と語るポイントが、スローイングだ。
「高校まではかついで投げるクセがあったんですけど、大学に入ってからスムーズになりました。目に見えて成長したのはスローイング。コーチの八木さんに教わってからよくなったようですね」
八木さんとは、現在は明桜高(秋田)で監督を務める八木茂氏のこと。早稲田大のOBで、阪急ブレーブスや阪神タイガースでプレーした経験を持っている。中村が下級生の時、母校で守備コーチを務めていた。
「八木さんが岡村猛監督に、『中村、セカンドいけるんじゃないですか』と言ってくださったんです。セカンドをやるのは初めてだったんですけど、毎日ノックを受けて、少しずつ慣れてきました」
中村本人の言葉である。八木コーチの進言がなければ、セカンド中村は生まれていなかったかもしれない。
中村の守備には安心感がある。非常に堅実。足を運んで捕り、足を使って投げる。スローイングは上からでも横からでも、スナップスローでも、回転のいいボールを投げることができている。
ドラフト1位指名を受けた日、父の携帯電話に「ありがとう」と連絡が入ったという。今後も父親として、そして野球界の先輩として、息子を支えていく。
中村に「同級生で意識している選手は?」と聞くと、即座に山田哲人の名前を挙げた。今季、ヤクルトの核弾頭として、打率.324、29本塁打と大ブレークを果たした男である。
ともに1992年生まれ。実は小学生の時から接点があった。中村は三田リトルから三田ヤングへ、山田は宝塚リトルから兵庫伊丹(ヤングリーグ)に進んでいる。兵庫県内の同じリーグでプレーしていたため、対戦経験もある。
でも、「あの時の山田が、この山田か!」と気づいたのは、3年夏の甲子園の時だ。抽選会の際に、記者から「履正社高の山田ってわかりますか?」と聞かれたという。そこで山田の経歴を聞いて、「あ!」となった。
そして、何の縁か、天理高と履正社高が初戦で激突。ともに3番打者で出場し、中村は3打数1安打1打点、山田は3打数2安打だった。
今の活躍をどのように見ているのか。
「正直、すごいなと思います。同じ4年間でも、職業でやっている4年間と学生としてやっている4年間は違うのかなと…。でも学生の4年間も絶対に無駄ではない。負けているとは思っていません」
今年は野球人生で初めてのキャプテンも経験した。
「3年秋のリーグ戦が中盤になった頃には、自分がなるだろうな、自分しかいないだろうなって。キャプテンになって視野が広がったし、思っていることを発言するようにもなりました」
目標に掲げる選手は、ロッテの井口資仁。ドラフト前の取材で、すでに井口の名前を口にしていた。縁あって、同じ球団でプレーできることになった。
「井口さんのように高いレベルで、バランスの揃った選手を目指したい」。同世代のライバル・山田哲人に負けてはいられない。球団の期待は即戦力。1年目からのレギュラー獲りを狙う。
(※本稿は2014年11月発売『野球太郎No.013 2014ドラフト総決算&2015大展望号』に掲載された「30選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・大利実氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)