file#007 T−岡田(外野手・オリックス)の場合
◎百聞は一見にしかず
まず、下記に掲載した動画を見て欲しい。これは、T−岡田が履正社高校3年時(2005年)のものである。最後の夏となる大阪府大会準決勝の大阪桐蔭戦で、センターバックスクリーンに弾丸ライナーで叩き込んだ本塁打の映像だ。
あまりの打球の速さと低さに驚き、不覚にもカメラの操作を誤ってしまった。そのため、途中映像が乱れて打球を追えていないのは申し訳ない限りだが、あっという間にバックスクリーンに打球が到達している様子と、その弾道が常人離れしたものであることはわかってもらえると思う。ちなみに、ピッチャーは後日甲子園で活躍し、一躍全国的に有名となる中田翔(日本ハム)。突如出現したこのスーパー1年生は、府大会では不調だった左腕エース・辻内崇伸(巨人)に変わって投打にわたり派手な活躍を見せ、徐々に騒がれ始めた頃だった。そして、センターで打球を追っているのは、平田良介(中日)である。彼らについてもいずれこの連載で主役になるときが来るとは思うが、この動画では岡田の当時から持っていたボールを飛ばす資質について実感してもらえれば幸いだ。
マークがきつくて結果に繋がらなかった高校3年時
T−岡田を初めて見たのは、まだ名前が「岡田貴弘」で、
松井秀喜(元レイズ他)を模して「なにわのゴジラ」と言われ始めた頃だった。すでに高校野球界では、下級生の頃に近畿大会で打ったセンターへの打球が大きな話題となって、一部にその名は広まっていたのだ。なんでも、外野手が一度前にスタートした低い打球が一気に伸びてバックスクリーンに突き刺さったのだという。当時から野球雑誌で
田中将大(楽天)や中田翔などにも注目し、取材をしていたライター・谷上史朗氏から聞いた話でもあった。そんなすごい打者ならぜひ直接見てみたい。そう思い、私は岡田が3年春に出場した近畿大会に足を運び、そのプレーぶりをチェックしたのがそもそもの始まりだった。
当時の岡田を一度でも見たことがあるならわかると思うが、まず目が行くのが、一般的な選手よりもはるかに大柄でがっちりとした体格だった。スイングスピードは、正直鋭い切れ味の類はそれほど感じなかったが、インパクトで「ズン」と体重がボールに乗っているのは明白で、ドラフトにかかるような選手に共通する“雰囲気のある選手”とすぐに実感した。
ただ、履正社は強豪ひしめく大阪府内で現実的に甲子園を狙える力を持つチームのひとつである。当時も、岡田の後の5番を打つ2年生・
土井健大(元オリックス他)は、岡田に負けない存在感を放っていたし、その他にも試合で岡田以上に結果を残すソツのない選手が揃っていた。
また、ライバルチームの面々もそうそうたるメンバーだった。大阪桐蔭には前出のとおり、1年の頃から活躍していた平田と、2年時に150キロ左腕としてその名が知れ渡った辻内がいて、さらに中田がいて、近大付属には
鶴直人(阪神)、PL学園には2年生エースの
前田健太(広島)、夏の決勝で大阪桐蔭と対戦した大商大堺の主軸には
松井佑介(中日)など、有望選手がゴロゴロいたのである。そのような中で、自身もすでに府内では名が通っており、相手ピッチャーのマークが厳しくなっていた岡田が、毎試合のように結果を出すのは非常に難しく、観戦した近畿大会では事前の期待に勝る収穫を得るには至らなかった。
高校最後の打席の弾丸ライナー
ただ、アマチュアの選手の能力を推し量るにあたって、相手や味方のプレーが多分に絡んでくる結果や記録だけでは、決定的な判断要素になりにくい。岡田に関しては、前述の厳しいマークを考えると、特にその気配が強く、回数を重ねて見ないとなんとも判断しがたいと考えていた。そのため、春季大会で終わりとせずに、夏の大阪大会にも2度に渡って現地を訪れている。この頃になると、岡田はすでにドラフトの目玉選手として騒がれるようになり、平田、辻内、鶴とともに「ナニワの四天王」と呼ばれるほどになっていたが、自分の目で確証のある手応えをつかんでおきたいという気持ちの方が勝り、何度も足を運ばせていた。
高校3年春〜夏にかけての岡田は、今振り返ると決して好調ではなかったと思う。これは多くの有望な高校生スラッガーに共通することだが、マークされると外に遠く外すか、思い切って体めがけて投げてくるか…。とにかく、ほとんどストライクが来ないため、ストレスが溜まって少々のボール球にも手を出すようになる。すると、思うような結果は出にくいので、ますます“打ちたがり”になり、最後は自分のバッティングを見失ってしまうのだ。そこまで行ってしまうと、今度は甘いコースすら凡打になってしまうようになる。平田は動物的な嗅覚と身体能力によって、そういったことには無縁のようだったが、岡田はまさに典型的な負のサイクルに乗っている感じであった。
それが、最後になってようやく、あの動画に収めた弾丸ライナーを見ることができたのである。おそらく、この試合のスタンドには多くのスカウトが陣取っていたはずで、岡田の能力に太鼓判を押すには十分過ぎるインパクトがあったであろう。かくして、岡田はその年の高校生ドラフトでオリックスから1位指名を受け(ドラフト時には辻内の1位抽選をめぐるちょっとしたトラブルがあったが)、プロの世界に足を踏み入れた。
◎ファーム時代の岡田から「T−岡田」へ
プロに入ってからの岡田は、次代を担う貴重なスラッガーとしてその資質は認められてはいたものの、結果からいうと数年間はシーズンの多くをファームで過ごしている。
ドラ1といえども、プロの荒波に飲み込まれてしまうと、そのまま這い上がれずに消えゆく可能性もあり、雑誌等の媒体で早くから取り上げるのが難しいのが現実だ。だが、ずっと彼のことを追っていた前述の谷上氏は「岡田はいずれ日本を代表する打者になる」という一貫した見方を崩さず、彼の取材企画を頻繁に提案してきていた。
その中の一つを実現させたのが、『野球小僧』編集部ログ(現在は閉鎖)において月2度の頻度で連載された「ナニワのゴジラ奮闘記」という岡田のレポートである。この連載は、ファームスタートとなった06年4月から09年のシーズン終了までの間、都合4シーズンに渡って掲載され、プロ入り当初から岡田の練習や試合に取り組む姿勢や、ゲームでの様子などが克明に紹介された。途中、心ない読者から結果の出ていない岡田を取り扱うことに対する誹謗じみた投稿が来たこともあったが、めげずに連載を続けたことで、一部のオリックスならびにプロ野球ファンから熱烈な支持を受けたのは、今となってはいい思い出である。
この連載は、岡田が1軍でその片鱗を徐々に見せ始め、シーズン7本塁打を放って1軍定着の足がかりをつかんだところでその幕を下ろすことになったのだが、その年のオフになって公募により彼の登録名が「T−岡田」となり、翌10年には33本塁打でパ・リーグ本塁打王を獲得したのは周知の事実である。
◎日本を代表するスラッガーになれ!
あの伝説の弾丸ライナーからもう7年。こうして、岡田のことをさも知っているように書いている私であるが、実は本人に面と向かって会ったことは一度もない。威張っていうべきことではないかもしれないが、ブログのときも誌面のときも、取材はすべて谷上氏に一任していて関西で行われており、現地に行く機会はついにめぐってこなかった。
しかし、最初に見た7年前のあのバックスクリーン弾を直接見て、さらに、取材後の谷上氏の報告や、執筆された原稿の確認、校閲、映像などを通して、若き日の岡田をもっとも熟知している編集者であった…という自負だけは強く持っている。当然のことながら、その思い入れは並々ならぬものがある。
統一球の導入後、11年、今年と苦労している様子だが、11月16日、18日に行われる侍ジャパンマッチ(キューバとの強化試合)では、日本代表にも選ばれた。近い将来には、日本を代表するスラッガーになることを心から願っている。
文=キビタキビオ/野球のプレーをストップウオッチで測る記事を野球雑誌にて連載つつ編集担当としても活躍。2012年4月からはフリーランスに。現在は『野球太郎』(10月5日創刊)を軸足に活躍中。
記事タグ
この記事が気に入ったら
お願いします