甲子園にまつわる90年の物語は今週で早くも折り返し。1960年〜1971年の12年間に活躍した13人の偉人たちの足跡を振り返ってみよう。
◎13人の偉人で振り返る
〜甲子園九十年物語〈1960−1971〉
<名勝負! 法政二高vs浪商高〜三度の激突>
1960(昭和35)年から1961(昭和36)年にかけては、法政二高と浪商高(現・大体大浪商高)が甲子園という大舞台で3度も対決。特に、法政二高は柴田勲(元巨人)、浪商高は尾崎行雄(元東映)という、球史に名を残すスター選手同士が鎬(しのぎ)を削ったことで甲子園を大いに盛り上げた。
最初の対決は1960(昭和35)年夏の2回戦。このとき、法政二高の柴田は2年生で、浪商高の尾崎は1年生エースとして試合に臨んだ。この試合で勝利をおさめた法政二高は、その勢いのまま大会を制した。二度目の対戦は1961(昭和36)年春の準々決勝。この試合も法政二高が制し、夏春の連続優勝につなげた。
そして、三度目の対戦が1961(昭和36)年夏の準決勝。「今度こそ」という浪商高の執念が実って、延長戦の末に勝利。そのまま決勝戦も制して見事優勝を飾った。
<史上初の春夏連覇>
甲子園大会史上、はじめて春夏連覇を達成したのが1962(昭和37)年の作新学院高だ。春のセンバツではエース・八木沢荘六(元ロッテ)が61回をたった4点に抑える好投を見せ、東京以東の地に初めて紫紺の優勝旗をもたらした。
しかし、春夏連覇を目指した夏の大会直前、作新学院高に悲劇を襲う。なんと、エースの八木沢が赤痢を患い、芦屋市立病院に隔離されてしまったのだ。このピンチを救ったのが八木沢の代わりにマウンドに登った加藤斌(たけし)(元中日)。特に準決勝、決勝では完封勝利をおさめ、甲子園史上はじめて「春の王者は夏に勝てない」というジンクスを打ち破った。
<阪神タイガースに黄金期到来>
プロ野球に目を転じると、藤本定義が監督を務めた1960年代前半が阪神タイガースの黄金期だった。1962(昭和37)年には村山実と小山正明の二本柱の活躍で15年ぶりのリーグ優勝を達成。この年は、村山が最優秀防御率のタイトルを、小山が最高勝率のタイトルを獲得し、沢村賞には小山が選ばれた。
ところが翌1963(昭和38)年、シーズン3位の成績で終わると、エース・小山が大毎オリオンズの主砲・山内一弘との「世紀の大トレード」でチームを移籍した。結果的には、このトレードは双方にとって大当たり。大毎に移籍した小山は1964(昭和39)年に30勝をあげて最多勝を獲得。一方の山内も31本塁打を記録し、チーム本塁打が球団史上初めて年間100本を突破。2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。しかし、1962(昭和37)、1964(昭和39)年とも日本一の栄冠は逃し、以降1985(昭和60)年まで優勝からは遠ざかることになる。
<猛虎を支えたレジェンドたち>
1960年代後半以降チーム成績はふるわなかった阪神だが、選手個々の活躍は目覚ましかった。1967(昭和42)年には新人の江夏豊が12勝をあげ、最多奪三振のタイトルを獲得。その後も江夏は1968(昭和43)年には日本記録となる年間401奪三振、1971(昭和46)年にはオールスターゲームで9者連続三振を達成するなど、数々の三振記録を打ち立てて阪神のエースに君臨した。その球を受けていたのが1969(昭和44)年に新人王を獲得した田淵幸一だった。
若手が活躍する一方で世代交代も相次いだ。1969(昭和44)年には「牛若丸」の異名で親しまれた名手・吉田義男が引退。1970(昭和45)年には村山実が選手兼任監督に就任した。しかし、村山は防御率0.98という驚異的な記録で最優秀防御率のタイトルを獲得。7月7日には通算200勝も達成し、選手生活晩年の最後の輝きを放った。
<優勝請負人、原貢の伝説>
話を再び「甲子園大会」に戻そう。甲子園人気は年を追うごとに増し、遂には「アイドル球児」を誕生させた。三沢高(青森)のエース・太田幸司(元近鉄ほか)が1968(昭和43)年夏と1969(昭和44)年の春夏と三季連続で甲子園に出場。特に1969(昭和44)年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たし、準優勝となった。その実力に加え、ロシアの血を引く日本人離れした体格と風貌で女性ファンの人気を集め、「コーちゃん」、「元祖アイドル球児」として世間を賑わせた。
一方、玄人を唸らせた代表格が1965(昭和40)年夏に無名校の三池工高(福岡)を初出場初優勝に導いた監督・原貢だろう。1970(昭和45)年には東海大相模高(神奈川)も全国優勝に導き、「優勝請負人」と呼ばれた。今年、神奈川を制して甲子園出場を果たした東海大相模高は、1970(昭和45)年以来44年ぶりの全国制覇を目指して戦うことになる。