1975年、前年に引退した巨人・長嶋茂雄監督の1年目のシーズン。自身の引退と主力選手の高齢化による戦力ダウンもあってチームは開幕から失速。
シーズンを通じて月間の勝ち越しが1度もなく、全球団に対しても負け越し。しかも、9月には当時の球団ワーストとなる11連敗を記録した。
9月4日、大洋(現DeNA)との3戦目に敗れると、次の広島戦は2敗1分、さらに阪神戦、広島戦で6連敗をくらい、ここで9連敗。続くヤクルト戦で2連敗して11連敗となった。
連敗開始から約半月後の9月18日、対ヤクルト3連戦の3試合目でようやく連敗脱出。3点ビハインドの嫌な展開だったが、何とか追いつき、最後はサヨナラ勝ちという劇的な幕切れだった(スコアは5対4)。
2005年のセ・パ交流戦元年。当時はホーム、ビジターの6回総当り制だったため36試合制だった。
交流戦の中盤に差し掛かった5月28日、日本ハムはヤクルトとの2、3戦目に連敗すると、次の巨人戦は1敗2分け。さらに中日戦、横浜(現DeNA)戦で6連敗、次の阪神戦で2連敗して11連敗。前述の長嶋巨人と似たような足取りで連敗街道をたどった。
交流戦が残り4試合となった6月12日、対阪神3連戦の3試合目では序盤から打線が爆発して16安打で10対3の快勝。ついに連敗ストップとなった。
ちなみに、これだけ負けはしたものの、交流戦の順位は10位。11位は広島、最下位は球団創設1年目の楽天だった。
ヤクルトアトムズ時代の1970年、8月4日からの阪神戦3連敗を皮切りに、広島戦で2連敗、巨人戦で3連敗、中日戦で2連敗、再び巨人戦で3連敗、大洋戦で2連敗と見事なまでに「スイープ」をされっぱなし。続く中日との3連戦の初戦も敗れ、16連敗となった……。
翌8月26日、虎の子の1点のリードを8回まで守り、連敗脱出は目前に迫った。しかし、9回に中日に追いつかれて延長に突入。踏ん張り続け、迎えた延長13回、1点をもぎ取り、なんとかサヨナラ勝利をものにした。
なお、この連敗期間中の8月20日に別所毅彦監督が解任。小川善治2軍監督が代理監督となり、シーズン終了まで務めた。
いまだに語り継がれる伝説の連敗記録。
近藤昭仁監督の2年目となる1998年、ロッテは6月13日のオリックス戦に敗れると、そこから近鉄戦で3連敗、日本ハム戦で3連敗、西武戦で2連敗、再び近鉄戦で3連敗と負けっぱなし。
次の西武戦を1敗1分けで終えた後、ダイエー(現ソフトバンク)に3連敗をして、この時点で当時のプロ野球タイ記録となる16連敗を樹立。
次のオリックス戦で2連敗して不名誉な記録を18連敗まで伸ばしたが、7月9日の3戦目に打線が爆発。追いすがるオリックス打線を振り切り9対6で勝利。勝利の瞬間にはテレビのニュース速報で報じられるほど、世間の関心を集めた18連敗だった。
文=サトウタカシ (さとう・たかし)