中村剛也、浅村栄斗に森友哉を獲得し、大阪桐蔭トリオの夢が膨らむ西武打線。しかし、沖縄で育ち、岩手で腕を磨いた大砲にも大きな夢が詰まっている。
ドラフトから3日が経った10月27日。山川穂高は明治神宮大会の出場を懸けた東北地区代表決定戦の準決勝を仙台で戦っていた。相手は東日本国際大。南東北大学リーグを1位で通過してきたチームだ。対する、山川率いる富士大は北東北大学リーグで2位となり、トーナメントの小さな山から神宮への道のりが始まっていた。初戦の日大工学部(南東北大学2位)を7対1で下し、続く東北学院大(仙台六大学2位)を7対0で撃破しての準決勝だった。
1対1の3回、山川はストレートを完璧にとらえ、レフトスタンドに運んだ。両翼100メートルの仙台市民球場。その外野芝生席の後ろのフェンスに打球は到達した。さらに6回、満塁で今度はカーブをとらえた。打球は大きな弧を描き、またもレフトへ。それはなんと、場外のネットに当たった。1試合2本塁打。「ホント、たまたまです」と謙遜したが、西武の2位指名に恥じぬ、「おかわり弾」だった。
これが、学生野球最後のホームランになった。決勝は同じ北東北リーグの八戸学院大と対戦、0対1で敗れた。山川は四球、空振り三振、サードゴロと凡退。最後は9回の先頭打者だったが、サードフライを打ち上げ、「アァーッ」と叫んだ。顔をゆがめ、悔しがった。後も続かず、ゲームセットが告げられた。それは同時に、学生野球引退の合図でもあった。
ベンチで仲間の前に立ち言葉を発すると涙が溢れた。
「もう、こいつらと野球ができないのかと思うと…」
打席で見せる勝負師の目は、慈愛に満ちていた。
東北地区代表決定戦は決勝こそノーヒットに終わったが、初戦から打棒でチームを牽引した。
準決勝後、好調の理由を聞かれた山川はこう答えた。
「これまではプロを意識し過ぎていたと思います」
ドラフトで指名された安堵感、“就職活動"からの開放感もあったが、もう1つ、ワケを話した。
「日本代表(東アジア大会)の時、『調子のいい、悪いで野球をするんじゃない』と言われたんです」
声の主は、日本代表ヘッドコーチでJR東日本監督の堀井哲也氏。大会が行われる中国へ行く前に「調子が悪い」と言うと一喝されたという。
「社会人の方々は打てなくても落ち込まないんです。落ち込んだらダメだというのをわかっている。淡々とやるんですけど、ここっていう時の目つきがいいんですよ」
大学2年で大学日本代表入り。日米大学野球ではダーラム球場のブルーモンスターを越える衝撃の本塁打を放った。その後、大学3、4年では社会人の選手に混じって日の丸に袖を通した。ドラフト直前の東アジア大会では唯一の大学生ながら4番を任され、優勝に貢献。全8試合中、7試合に出場し、25打数9安打でチーム最多の11打点を叩き出した。予選の韓国戦では満塁弾を放ち、二塁打は5本で、長打率8割をマークした。
社会人混合の日本代表では当然、チームメートは年上で実績のある選手が揃う。「選手はスーパースターばかりで1つ1つの発言が深いですし、リーダーシップがあります」。学生野球からワンランク上のレベルを常に体感できたことは大きな財産となった。
176センチ、自称「95キロ」。飛距離、打球速度はアマチュアレベルをすでに超えている。
小さい頃から体格がよかったのかと言えば、そうではないという。中学に入学した時は150センチ、50キロ。それが、卒業する頃には175センチ、100キロに成長していた。
硬式野球チーム「SOLA沖縄」に所属しながら、中学ではバレーボール部のセンターとして活躍した。SOLA沖縄の練習場は自宅から片道10キロ。那覇空港近くの野球場で練習することもあり、その時は片道20キロ。いずれも、愛用のマウンテンバイクで通った。よく動いたが、成長期と母・喜代子さんが作る食事で現在の体格の基盤は作られた。
SOLA沖縄・大久保勝也監督の「お前はプロに行ける」「ホームランバッターになれる」という言葉を励みに練習。3年のわずかな期間で20本以上のアーチを描き、大学では「50〜60本」(山川)を量産した。
好きな選手は中村剛也(西武)、中田翔(日本ハム)、村田修一(巨人)の名前を挙げる。何度聞いても、その順番は同じだった。最初に出てくる中村が所属する西武から指名されたのも運命だろう。
落合博満氏(中日GM)の著書から影響を受けたこともあり、「三冠王を獲れるような選手になりたい」と将来像を語る。憧れの「おかわり君」と、西武ドームでアーチをかける"競演"も楽しみだ。
(※本稿は2016年11月発売『野球太郎No.007 2013ドラフト総決算&2014大展望号』に掲載された「30選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)