イチローが所属するマイアミ・マーリンズが、成績不振を理由にレドモンド監督を解任。そして、後任の監督としてダン・ジェニングス氏の就任が発表された。このニュースは、アメリカでも驚きをもって報じられている。というのも、ジェニングス新監督はこれまで、監督はもちろん、コーチとしての指導者経験もゼロ。スカウトを経て、2002年にマーリンズのフロントに入り、2013年から監督になる直前まで、チーム編成責任者であるゼネラルマネージャー(GM)を務めていたからだ。
チームのことを一番よく知っている人物であるのは間違いない。だが、それはあくまでも背広を着て、机の上でやってきたこと。ユニフォームという“戦闘服”を着て、ダッグアウトという現場で、力を発揮できるのかどうか、まったくの未知数といっていい。
だが、過去を振り返れば、こうした「背広組からの転身」がまったくなかったわけではない。日米における「異例の監督就任劇」をチェックしてみよう。
指導者経験ゼロから監督へ……近年、真っ先に思い浮かべる事例といえば、北海道日本ハムファイターズの監督を務める栗山英樹氏だろう。29歳の若さで現役引退した後、野球解説者や『熱闘甲子園』(テレビ朝日系)のキャスターとして活躍していた栗山氏に転機が訪れたのが2012年、50歳の時。指導者経験ゼロながら日本ハムの監督に抜擢されると、就任1年目にリーグ優勝を果たすという大仕事をやってのけた。
1993年から2年間、福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)の2軍監督を務めた有本義明氏は新聞記者からの転身組。慶應義塾大で選手としてプレーした後、プロには進まず、スポーツニッポンに入社してプロ野球を中心に取材活動を行っていた。
その一方で、阪神の藤本定義監督からの要請で、後にエースとして活躍するバッキーの獲得をサポート。テレビやラジオのプロ野球中継で解説者を務めるなど、その活躍は新聞記者の領域を大きく越えていた。その異色の経歴と野球観に着目したのが、“球界の寝業師”、と呼ばれた根本陸夫氏。自らがGM的役割を担っていたダイエーの2軍監督に抜擢したのだ。
ボストン・ブレーブスの監督を務めたエミル・フークスもまた「変わり種監督」だった。というのも、フークスはもともとブレーブスのオーナーだったからだ。1929年、チームの資金不足で監督を雇う余裕がなく、このシーズンだけ自ら監督を務めてしまった。
ブレーブスはその後、何度も移転やチーム名変更を繰り返し、1966年に今につながるアトランタ・ブレーブスになったが、“オーナーが緊急事態に監督になる”という伝統はなぜか繰り返されることになる。1977年5月11日、16連敗という泥沼に業を煮やしたオーナーのテッド・ターナーが自ら監督に就任したのだ。ところが、その試合でも敗れてチームは17連敗。ターナーは懲りたのか、この1試合で退任してしまった。