プロ入り3年目、2007年5月の広島戦でサヨナラ打を浴びた石井裕也(当時中日)は、試合後、捕手の谷繁元信(中日)にきつく怒られた。
ピッチングのことを言われているのは明らかだったが、耳が聞こえにくい石井は、何を怒られているのかわからなかった。それでも、本気で怒られたことがうれしかったという。その理由について、石井はこう言った。
「障害者は、障害があるっていうことで周りに甘えているのは全然ダメなので」
アマチュア時代には監督から叱られ、怒られたこともあった石井だが、中日に入団してからの2年間は特に何もなかった。それだけに「もっときつく言ってほしかった」と思うときもあったそうだが、その点、周りが気を遣った面はあったのかもしれない。
石井自身、「もっとキツく言ってほしい」と思うような不備があっても、周りはそうならない。その状態を客観的にとらえて、このまま周りに甘えていてはいけないと考えていたのではないか。
───「もっとキツく言ってほしかった」ということは、コミュニケーションがうまくいかなくて苦労する経験は前にもあったんですね?
石井 やっぱり、早い言葉とか、低い声だと、全然、わからないときはあるんです。プロに入ってからも、困ったな……、というときはありました。自分で聞こえないのはしょうがないんですけど、たまに、コミュニケーションがうまくいかなくて、いらいらするとき、腹が立つときはありました。
───言葉が通じ合わないときに、書いたりはしないですか?
石井 たまには書くときもあります。でも、ミーティングなどでわからないときは、隣の人に「どんな話をしていたんですか?」とか、いろいろ教えてもらうようにしていました。あと、ミーティングが終わったあとでも、「さっきの話はどんな内容を言っていたの?」とか、説明してもらうようにしていました。
───言葉がわからないために、野球で失敗したことはありますか?
石井 野球では、連係プレーで失敗したことはあります。自分のピッチングは覚えてるのに、たまにサインプレーを忘れるときがあったり。練習のときはそれでも問題ないですけど、試合に入ってからたまに失敗するときがあって、チームに迷惑かけました。
迷惑がかかっても、それまで、石井に対して怒る者は周りにいなかった。すなわち、石井はちゃんと聞こえないのだから仕方ない……。そうした周りの気遣い、いわば“暗黙の了解”のようなものを、谷繁が突き破ったのだ。
まして、言葉が通じなかったなかで気持ちが通じたのは、バッテリー関係として大きい。ゆえに石井にとってこの経験は、プロの投手として生きていく上で、ひとつの転換点になったに違いない。
実際、この年、2007年の石井は16試合で18回1/3の登板ながら防御率2.95はそれまででベスト。前年と同じく日本ハムと戦った日本シリーズでも2年連続で登板を果たし、中日の日本一にも貢献できた。充実の投手陣においても欠かせない戦力になりつつあった。
ところが、翌2008年は左肩のケガで2軍スタートを余儀なくされると、シーズン途中の6月、交換トレードで横浜(現DeNA)に移籍。突然の環境の変化だった。それでも、横浜で生まれ育った石井はもともとベイスターズファンで、ドラフト時は意中の球団といわれていた。地元で心機一転、新天地では左の中継ぎとして活躍し、翌2009年の序盤には抑えを務めるまでになった。
ただ、チームは2年連続で最下位に低迷し、石井自身も最終的には好成績を挙げられず。自ら「しょうがないです」と振り返る2年間を経て、2010年4月、今度はペナントレース開幕直後に日本ハムに移籍となった。
───当時から昨年まで、チームには鶴岡慎也捕手(現ソフトバンク)が在籍していました。社会人のときも同僚でしたよね?
石井 そうです。日本ハムで久しぶりに会ったので、話をして、チームのこととか、環境面とか、いろいろ教えてもらってよかったです。最初はなじめなかったのですが、鶴岡さんのおかげですぐ溶け込んで、慣れていくうちに、すごくいいチームだと思いました。
───そのチームの投手陣で、石井投手にとって参考になったピッチャーはいましたか?
石井 それはいないですね。チームにはいいピッチャーがいっぱいいて、それぞれによさがあると思いますけど、自分は自分だと思っています。
───プロ10年目で年齢的には30代半ばに近づいてきたなかで、大谷翔平投手をはじめ、若い力も台頭してきました。意識することはありますか?
石井 ちょっと感じることはあります。若いピッチャーのほうが伸びがありますので、負けられないな、と思っています。年下で、かわいいヤツ、いいヤツばっかりだけど、試合のときは負けられない。ライバルみたいな感じもあります。みんなうまくなって、成績も上がっているので、こっちもがんばらないといけないと思います。
───では、石井投手自身、プロで10年間、変わらずに守ってきたこと、あるいは続けてきたことはなんですか?
石井 全然、変わっていないのはピッチングスタイルです。今でも、バッターに向かっていく気持ちが変わらないので。
───逆に、10年前の自分自身と今とを比べて、変わったことはありますか?
石井 10年前、なにかがわからないときとかは、おどおどしていました。でも、今ではおどおどしていません。なんというか、大人になったんじゃなくて…、まじめになったんじゃなくて……、落ち着いていられるようになりました。
落ち着いた、といえば、石井は2010年12月に結婚。「家庭ができたことで自分の成績が上がって、よくなったと思います」という。昨年オフの契約更改では年俸も1100万アップの4300万円(推定)に達して、「正直、びっくりした」と言いながら、「もう少しいきたかったなと思います」とこぼして笑う。
それでいて「成績をもっと挙げないと年俸も上がらないのは、わかってます」と付け加えることも忘れていない。
一方で石井は、横浜時代からシーズンオフにろう学校を訪ね、聴覚障害を持つ子どもたちと交流してきた。そうして2011年6月には、日本ハムの〈選手プロデュースデー〉の一環で、聴覚障害のある人たち120名を札幌ドームでの試合に招待。「プロになってから思い描いていたことが実現した」という。
───10年前のインタビューで、石井投手はこんな夢を語っておられました。「子どもたちに夢を与えられるようにしたいし、障害者の皆さんにも、ぜひ僕を見に来てほしいなと思います」と。そうした活動は、ご自身にとってもプラスになっていますか?
石井 プラスになります。ろう学校に行ったときも、耳が聞こえない子どもたちがたくさんいて、みんな元気な姿を見て、自分の励みになったり、がんばらないといけないと思ったりしましたから。それと、聞こえない大人の人たちで、野球をわからない人もたくさんいますので、できるだけ球場で観戦してほしいと思って、招待したんです。
───もうひとつ、10年前の目標は、「将来、野球をやってる子どもたちから、目標とされる選手になりたい」でした。
石井 その目標は、今も全然、変わっていません。もしも、僕を目標として「プロ野球選手になりたい」と言われたら、すごくうれしいです。だから、もっともっと上を目指して、がんばれるように、夢を与えてあげたいと思います。それと、耳が聞こえない野球選手は、プロでは僕しかいないので、聞こえない子どもが僕を見て、プロに入ってほしいと思います。
───今は鎌ケ谷(2軍)ですけど、子どもたちにも札幌ドームで投げる姿を見せたいですね。
石井 はい。今年の、今の目標は、まずは1軍に上がること。チームの事情でしょうがないですけど、自分で結果を残さないといけないですから。
───シーズン終盤の大事な試合での活躍を期待しています。
石井 ありがとうございます。がんばります。
(2014年7月23日/鎌ケ谷スタジアムスタジアムにて)
第1回「マウンドに上がったら補聴器のスイッチを切って、集中力を高めています」
第2回「『向こうのバッターの力が上なんだ』と認めることも大事だとわかりました」
第3回「谷繁さんに怒られたとき、本気で怒られたことが、僕にはうれしかったんです」
■ライター・プロフィール
高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、「野球」をメインに仕事するフリーライター。1998年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。著書に『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)などがある。2014年5月より『根本陸夫伝〜証言で綴る[球界の革命児]の真実』(web Sportiva)を連載開始。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka