その歴史はV9時代の二塁手・土井正三からスタート。土井は入団から現役引退まで14年間ずっと「6」を背負い、5度のリーグ最多犠打を記録。さらに二塁手としてベストナイン2度、引退年の1978年にはダイヤモンドグラブ賞を獲得。1969年の日本シリーズ・阪急戦で、捕手のブロックをかいくぐって生還した「奇跡の走塁」は語り草である。
土井の後は篠塚利夫(1992年から和典に改名)が引き継いだ。1979年、それまでの「37」から「6」に変更され、94年の引退まで17年間背負い続けた。流し打ちが持ち味のヒットメーカー、また華麗なフィールディングで魅せる二塁手として名を馳せ、80年代の球界を代表するプレーヤーのひとり。今も「篠塚モデル(後継も含む)」のバットやグラブを使用している選手も多い。
篠塚の引退後は落合博満(1995〜1996年)、石井浩郎(1997〜1999年)、小久保裕紀(2004〜2006年)と、他球団から獲得したスラッガーが名を連ねる。このうち小久保は4番打者を務めるだけでなく、2006年には移籍組で初の主将就任を果たした。
また、スラッガータイプ以外にも川相昌弘(2000〜2003年)、小坂誠(2007〜2008年)といぶし銀タイプの内野手が「6」を背負ってきた。
2009年からは坂本勇人が身に着けている。大型遊撃手の坂本は先代の誰ともタイプは被らないが、大きな番号からの変更は篠塚と同様(坂本は2007年から2年間「61」を背負った)。さらに今季から主将に就任したが、これは小久保と被る。選手としてのタイプは被らなくても、坂本には先代との共通点があったのだ。
今、グラウンド外における巨人を取り巻く逆風は強い。せめてフィールド内では背番号「6」のプレーに一喜一憂したいものだ。
文=加賀一輝(かが・いっき)