東海大相模高校の優勝で幕を閉じた、夏の甲子園大会。「高校野球100年」節目の大会ということで、期間中はこれまでの高校野球の歴史が紹介され、数々の名場面や記憶に残る高校球児たちが、繰り返し報じられた。
記憶に残る高校球児といえば、もちろん世代によって、人それぞれで異なるだろう。しかし、30年近くたった今でも、横浜高校のエース・松坂大輔の名前を挙げる人は多い。
1998年第80回夏の甲子園大会準々決勝では、延長17回、250球を投げての完投勝利。さらに決勝という大舞台ではノーヒットノーラン達成など、その偉業からも「平成の怪物」と呼ぶに相応しい活躍をみせたをこと覚えている人は多いだろう。
怪物伝説の始まりは高校2年生のとき。松坂は1年の秋から投手としてマウンドに上がり、エースとしてチームを引っ張っていた。しかし、一方では「サボりのマツ」と呼ばれ、カラオケやゲーセンは大好きだが、大の練習嫌いで知られていた。
そんな松坂が変化したのは、2年夏の神奈川県大会予選の横浜商戦。9回裏同点の場面で、相手スクイズを外そうとした投球が暴投となり、チームはサヨナラ負け。甲子園出場を逃した。先輩への申し訳なさや悔しさから、松坂は一生懸命、練習に打ち込むようになる。
直後の夏合宿では延々とアメリカンノックを浴び、才能を磨いた。そして迎えた秋季大会、明治神宮大会を制覇。1998年のセンバツ切符を手にして、怪物伝説が幕を開けたのだ。
3年春に出場したセンバツ大会では、2回戦の報徳学園戦から決勝の関大一戦までの5試合を、全て1人で投げ抜いた松坂。横浜高を25年ぶりの優勝に導き、最後の夏の大会を迎える。
圧倒的強さで県大会を勝ち抜いて出場した夏の甲子園。松坂は、1回戦から3回戦まで全て完投勝利をおさめ、準々決勝のPL学園戦では、前述した延長17回を制した。250球を投げ、13安打を浴びながら7失点。「野球人生で一番苦しい試合でした」と振り返っている。
翌日の明徳義塾戦では9回の1イニングに登板。8回まで6点差をつけられながら、松坂の力投でビハインドをひっくり返し、奇跡の勝利を呼んだ。
そして迎えた決勝戦。疲労困憊の松坂は、疲れた体にムチを打って、伝説となったノーヒットノーランの快挙を達成したのだった。
そして現在、「高校野球100年」節目の大会が盛り上がる8月18日、松坂が右肩手術を受けたと報道された。実戦復帰まで半年を要するといい、今季絶望が確定。9年ぶりに日本球界復帰を果たした今シーズン、一度も1軍登板がないまま終えることになった。
輝いていた高校時代、甲子園を沸かせた松坂大輔。夏の終わりを告げる甲子園閉幕に合わせて、松坂の野球人生も終わってしまうのか。しかし、「このままでは終わるはずがない」と信じる高校野球ファンも多いはずだ。今はただ、「平成の怪物」の復活を静かに見守りたい。