【この記事の読みどころ】
・雌伏の時を経て、あの1998年を迎える渡辺監督
・「目標がその日その日を支配する」誕生秘話
・未来へと受け継がれる渡辺イズム
☆今夏の横浜情報
5回戦、準々決勝、準決勝と3戦連続、1点差の逆転勝利で勝ち上がる。そして迎える決勝戦の対戦相手は東海大相模。勝っても負けても、渡辺元智監督にとっては、これが神奈川大会で指揮を執る最後の試合となる。
激戦区・神奈川を勝ち上がっても全国では勝てない日々が続いた1981年から1997年の横浜高校と渡辺元智。だが、その雌伏の期間を経て、遂に春夏連覇を達成するあの1998年を迎える。
1998年の物語を理解するために、まず、1994年の敗戦について振り返っておきたい。1994年の横浜高校には矢野英司、紀田彰一、横山道哉(いずれも元横浜ほか)、多村仁(DeNA)、斉藤宜之(元巨人ほか)と、のちにプロの世界でも活躍する選手が揃っていた。その顔ぶれは“98年組”にも劣らないまさにスター軍団。それでも、この“94年組”は甲子園では春・夏とも2回戦止まり。渡辺が改めて「甲子園で勝つために必要なこととは何か?」を考える契機となった。
この世代に限らず、甲子園常連校になったからこそ、個性の強い選手が毎年集っていた横浜高校。それ故、チーム内のライバル意識が強くなりすぎて、個々の力をチームの力へと昇華させることができていなかったのだ。
《「全員一丸となって……」という結束が、最後まで生まれなかったのである。これは選手たちの責任ではなく、そういう風に導いていってやれなかった私の力不足であり、彼らには申し訳ないことをしたと思っている》
(渡辺元智著『育成力』より)
指導者歴30年を経て、改めて気づいた「全員野球」の重要性。この経験を踏まえ、1998年1月に渡辺が初めて実施した練習方法が「会話だけの合宿」だった。
温泉につかりながら会話、食事をしながら会話、スキーをしながら会話……この合宿では温泉で日頃の疲れを取るとともに、練習はせず、ひたすらミーティングと会話に時間を充てた。
振り返れば、1998年の横浜高校は圧倒的な力で勝ち上がったというよりも、奇跡的な逆転劇の多いチームだった。それもこれも、「会話だけの合宿」によってチーム力がかつてないほど高まり、「オレが決める」ではなく、「みんなで勝とう」という気持ちがチームバッティングとして結実したからだ。そして、そのチームワークがあったからこそ、より輝きを増した怪物・松坂大輔(ソフトバンク)。彼の帽子のつばに書かれていた言葉は「one for all(一人はみんなのために)」だった。
「チームバッティング」という点でみれば、“98年組”よりも凄かったのが2006年のメンバーだろう。センバツ決勝戦での21−0は大会新記録、5試合で54得点という猛打で横浜高校は5度目の全国制覇を達成した。渡辺元智、61歳の春だった。
実はこの優勝の2年前、2004年に渡辺は脳梗塞を患い、体調面は万全とはいえなかった。それでも監督という激務を辞めようとはしなかった。たとえ自分自身が辛い状況にあろうとも、全国制覇といういつもと変わらない目標設定を掲げ、チームを一歩ずつ前進させることで栄光を勝ち取ることに成功したのだ。