筆者が幼少の頃の野球観戦の記憶では、父は神宮球場の外野の芝生に寝そべって、タバコをふかしながら野球を見ていた。そう、当時の観客席では現在は厳禁となっている喫煙が禁止ではなかったのだ。後楽園球場の混雑した観客席でも喫煙者がいたものだ。今や「あってはならないこと」となったが、懐かしい風景でもある。
現在では西武の本拠地・メットライフドームの外野席が人工芝となっているが、1978年まで神宮球場は天然の芝生席だった。観戦しているとき、子ども心に「持ち込んだおにぎりを落とすと転がっていってしまうのでは?」とも思ったが、意外とそういうことはなかった(笑)。
1973年から1982年までの10年間、パ・リーグは前後期の2期制を取っていた。ペナントレースが終わると、前期の優勝チームと後期の優勝チームでプレーオフを行い、シーズンの優勝チームを決定。これは観客動員数増加のための苦肉の策として行われた施策だったが、1983年からは1期制に戻された。当時のパ・リーグの名シーンにプレーオフの映像が多いのはこのためだ。
2期制は、年間で最多勝利を挙げても優勝できないケースが起こりうる“ある意味、恐ろしい制度”だったが、現在のクライマックスシリーズの源流といえるかもしれない。
運よく内野指定席で観戦できた日の記憶として印象深いのは、イニングとイニングの間に、ダグアウトの上で大きな旗を振りまわしながら笛を吹く応援団のおじさんたちがいたことだ。
1970年代にはラッパや太鼓で鼓舞する大人数の応援団はおらず、イニング間やチャンスの時だけダグアウトに登ってくる数人の応援団しかいなかった。この面々はダグアウト周辺の座席に陣取っていたのだが、どのようにして毎試合、その席を確保していたのだろうか……。
ほかに「なくなったもの」だと、記憶に新しいところでいえば甲子園球場のラッキーゾーンだろうか。野球の華・本塁打を増やすために1947年に設置され、1991年に撤去されたラッキーゾーンだが、高校野球の名シーンでも独特な存在感を発揮するなど、今も当時を知る人々の記憶に残っている。
文=元井靖行(もとい・やすゆき)