1人目は静岡商の田所善治郎(元国鉄)。今から半世紀以上も前、1952年に行われた第24回大会で、全4試合を完封勝利でチームを頂点に導いた名投手だ。
4試合連続完封での優勝はセンバツ史上3人目だったが、田所が高校時代に甲子園の土を踏んだのは、後にも先にもこの大会のみ。鮮烈な印象を残した。
また4試合がすべて3点差以内の接戦だったことも特筆すべき点。プレッシャーを跳ね除けてつかんだ偉業と言えるだろう。
2人目は1977年の第49回大会で、中村(高知)を準優勝に導いた山沖之彦(元阪急ほか)。
初戦から準決勝まで、相手を2点以内に抑え込む好投でチームによいリズムをもたらし、初出場ながら決勝進出の原動力となった。
大一番の決勝・箕島(和歌山)戦では打線が封じられて0対3で惜敗。準優勝に終わるが、山沖は箕島を相手に互角に渡りあいエースとしての役割は全うした。部員12人でセンバツを戦った中村は「二十四の瞳」というキャッチフレーズとともに、爽やかな旋風を起こした。
ちなみに中村は今センバツに21世紀枠で出場。「二十四の瞳」旋風以来40年ぶり2度目の出場で、現チームの部員数も16人と少ない。残念ながら初戦で敗れたが、古くからの高校野球ファンを喜ばせた。
第49回大会の山沖に続き、第50回大会でも伝説が生まれた。その主人公となったのは前橋(群馬)の松本稔。1回戦の比叡山(滋賀)戦で夏も含めて甲子園史上初の完全試合を達成したのだ。
ただ松本は、イニングが進み快挙が近づくなかでも淡々と投球を続け、達成した瞬間も大喜びするチームメートをよそに、はにかんだような笑顔を浮かべただけ。
というのも「すでに誰かが達成しているだろう」という気持ちと、「相手チームに申し訳ない」という気持ちが入り混じっていたからだという。
でも、もし完全試合の先人がいたとしても、十分に喜んでいい快挙だと思うが……。
出場するだけでも困難な道を乗り越えてこなければ辿り着かない甲子園。その上で結果を残すこと、ましてや優勝することを考えたら天文学的な確率に思えてくる。
だからこそ、ここで紹介した伝説の3投手は尊い。後世にいつまでも語り継がれるべき存在だ。そして、完全試合とは言わずとも、彼らにように好成績を記録し、ファンの心に残り続けるスターが登場することを期待したい。
文=森田真悟(もりた・しんご)