連日熱戦が続く夏の甲子園。高校野球100年を謳う今大会までに行われてきた決勝戦にスポットを当てるこのコーナー。今回は昭和時代の前半に行われた決勝戦を選りすぐって紹介しよう。
1927年(昭和2年)
――第13回大会
広陵中|000|000|001|1
高松商|010|030|01×|5
優勝した高松商の道程は険しいものだった。準々決勝では福岡中(東北・岩手)に延長戦の末、1−0で辛勝。準決勝の愛知商戦も1−0で逃げ切るなど、苦しみながら決勝戦にコマを進める。
しかし、エース・八十川胖(やそがわ・ゆたか)を擁する広陵中と戦った決勝戦では、序盤に先制、中盤に相手のエラーに乗じて追加点を奪い、終盤にダメ押し点を取る、といった安定した試合運び。5−1で勝利し、全国制覇を成し遂げた。
ちなみに、この大会に出場した和歌山中は、センバツ優勝のご褒美として、主力選手はアメリカ遠征の真っ最中だった。そのため、夏の大会に出場したのはいわゆる2軍メンバー。甲子園の1回戦で鹿児島商に0−8で敗れたものの、地方大会を勝ち抜く実力の持ち主たちだった。ファンの間では、主力組が出場していたら、優勝の行方はどうなっていたのだろう、と話題になった。
1929年(昭和4年)
――第15回大会決勝
広島商|000|000|300|3
海草中|000|000|000|0
第10回大会で優勝した広島商が、再び栄冠を掴んだ。前回優勝時の石本秀一監督が復帰し、チームは猛練習を積んだ。その厳しい練習内容は、数々の伝説として残っている。
ノックでエラーをすれば、その場で座禅を組む。ビンタなどの鉄拳制裁は当たり前。信じられないのは、日本刀の刃を上に向けて、その上を素足で歩く精神修行。その甲斐あってか、決勝では9回裏2死満塁のピンチにも動じることなく、7回に取った3点を守り切って優勝を果たしたのだった。
1933年(昭和8年)
――第19回大会決勝
平安中|000|010|000|1
中京商|200|000|00×|2
この大会で、不滅の3連覇を達成した中京商。準決勝は今でも語り継がれる延長25回の死闘だった。その試合を経ての決勝戦だったが、3年連続でエースを務めた吉田正男は、準決勝で336球も放ったにも関わらず、翌日の決勝戦のマウンドに登った。
疲労困憊の吉田。10四球を与える乱調ぶりも、平安中をわずか2安打に抑える神がかった投球をみせる。野手陣も疲れた体にムチを打って、吉田を盛り立てた。結果、平安中のエラーで奪った初回の2点を最後まで守り切って、1点差で優勝を果たしたのだった。
1939年(昭和14年)
――第25回大会決勝
海草中|002|000|201|5
下関商|000|000|000|0
この大会の主役は、なんといっても海草中の左腕・嶋清一だ。1回戦の嘉義中、続く京都商と2試合連続で5−0のスコアで完封。米子中を3−0、島田商を8−0、決勝戦も5−0で下関商を抑え、優勝に導いた。5試合に登板して154人の打者に対して被安打8、57奪三振、45回連続無失点、5試合連続完封という素晴らしい成績を残した。
準決勝の島田商戦は4四球を与えたものの、17奪三振でノーヒットノーランを達成。さらに決勝戦の下関商戦でも2四球のみで、2試合連続ノーヒットノーランという快挙をやってのけた。さらに、この試合では出した2人の走者を二塁への盗塁をアウト、一、二塁間の挟殺プレーでアウトにした結果、1つの残塁も記録せず、試合を終えた。
この大会も前年に続いて海草中が優勝した。前年のエース・嶋清一が卒業し、替わってエースの重責を担った真田重蔵(元松竹ほか)の好投が光った。
決勝戦は、前年の準決勝と同じ顔合わせとなった。前年は8−0のノーヒットノーランで勝っていた海草中だが、この試合では反対に島田商が押し気味の展開で試合は終盤へ。海草中の7回の攻撃は2死。なんでもない内野フライを打ち上げ、8回の攻防へ移ると思いきや、島田商の遊撃手と三塁手が譲り合って落球。ここから勝ち越し点をもぎ取り、そのまま勝利。2年連続夏の甲子園制覇を果たしたのだった。
1941年(昭和16年)
――第27回大会は戦争により中止
この年も例年通り、甲子園大会は8月13日開幕の予定で、各地で地方大会が進んでいた。しかし、第二次世界大戦の戦局が次第に悪化。軍部が日本国内を移動する際、それを優先するために交通手段を制限することになり、その影響で甲子園は中止となってしまった。
中止が発表されたのは、7月13日のこと。すでに地方大会が進んでいる地区もあり、33地区で大会を挙行。その一方、兵庫大会など中止した地区もあった。地方大会の優勝校は、残念ながら甲子園の土を踏むことはできなかった。
1942年(昭和17年)
――学徒体育振興会大会
平安中|100|001|040|01 |7
徳島商|010|000|500|02×|8
戦局はさらに悪化し、日本は未曾有の緊急事態を迎えることになる。その影響で、この年は春のセンバツも夏の甲子園も、文部省の指示で中止が決定。代わりに8月12日から、文部省とその外郭団体である学徒振興会の主催で、甲子園球場で野球大会が開かれたのだった。
出場校はわずか16校で、雨の影響で準決勝と決勝を1日で消化。優勝したのは徳島商だった。6−6の同点で迎えた延長11回表、平安中は1点を勝ち越し。しかし、その裏、連投で疲労困憊の富樫淳を攻略した徳島商は同点に追いつき、さらに2死満塁のチャンス。決勝点はなんと、押し出し四球によるものだった。
(文=編集部/イラスト=横山英史)