胃が痛くなる。
遂に開幕したWBC。阿部のケガがなければ……という「たられば」を早速使いたくなるほど、初戦からこんなにドキドキさせられるとは思ってもいなかった。思い返せば前回WBCで優勝の立役者となったイチローも、大会後に胃潰瘍になっていた。突きつけられる痛み、それこそが国際試合の重みとも言える。
実際、過去2度のWBCを振り返ると、ケガや体調不良に苦しむ選手が多い。大会中に負った「ケガ」が原因で、その後のシーズンだけでなく野球人生に影響を受けた選手までいる。そこで今回のクロ圏では、「WBCとケガ」の歴史について、4名の選手の足跡とともにクローズアップしていきたい。
【2006WBC】
●石井弘寿(東京ヤクルト)・2次リーグから左肩痛により離脱
球速155km/hは日本人左腕投手歴代最速。2004年のアテネ五輪にも出場し、球界最高のセットアッパーとも称されていた石井弘寿。メジャー移籍も秒読みとささやかれていた。
WBCでも貴重な左の中継ぎ・抑え投手として期待されていたが、事前合宿において各チームの一線級投手が集まる環境に発奮しすぎてしまい、左肩を故障。ケガがいえないまま1次リーグの韓国戦に登板してさらに悪化。2次リーグに向けて渡米するも途中離脱することとなった。
「代表に選んでもらって日の丸を背負っているので簡単に辞退できないという自負と責任があった。肩が上がんない状態で痛み止めの薬を飲んだり、注射を入れて麻痺させて投げていたわけですから、そりゃ手遅れになりますよ」(松永多佳倫著『マウンドに散った天才投手』より)
以降、石井は5年間のリハビリ生活を強いられ、かつての輝きを取り戻すことができないまま、現役引退することとなる。
●川?宗則(ソフトバンク)・決勝で右ひじを負傷
決勝戦(対キューバ戦)。序盤から日本ペースで進んだ試合だったが、終盤8回に1点差にまで迫られる。しかし、9回表にイチローの安打で川崎が二塁から生還、貴重な勝ち越し点を上げた。その際川崎は、キューバ捕手のブロックの僅かな隙間から右手をねじ込み、「神の右手」として話題に。しかし、このプレーで右ひじ靭帯を損傷し、シーズン復帰は4月中旬までずれ込んだ。
一方で、平均視聴率43.4%、瞬間最高視聴率56%という、国民的関心事となったこの試合での活躍によって、それまでホークスやパ・リーグの人気者だった川?の知名度が一般にまで広がる契機となったのも事実。まさに「ケガの功名」と言える。以降、チームだけでなく球界のリードオフマンとなった川?は、翌第2回WBCでもイチローとの師弟関係が話題を集め、日本2連覇の原動力に結びついていく。さらに、メジャー移籍を果たし、イチローと三度同じユニホームを着ることになるのだから、人生は面白い。
【2009WBC】
●村田修一(横浜)・第2ラウンドで右太もも裏を負傷(肉離れ)し、大会途中で帰国
2007、'08年と2年連続でセ・リーグ本塁打王となり、名実共に日本の4番としてWBCに臨んだ村田。実際、ケガをするまでは打率.320、2本塁打、7打点の成績で日本の準決勝進出を支えた一人。優勝決定後の記念撮影において、当時同じ横浜のチームメイトだった内川聖一が優勝トロフィーに村田の背番号25のユニホームをかぶせて持ち上げたのは大会のハイライトだ。
しかし、このケガによって開幕に間に合わなかった村田。シーズン本塁打も25本に終わり、連続本塁打王の記録は2年でストップしてしまった。
セ・リーグでは過去、右打者で3年連続以上本塁打王になった選手はおらず(山本浩二、落合博満の2年連続が最高)、セ・パ両リーグで見ても右打者での3年連続以上の本塁打王は中西太(4年連続)、野村克也(8年連続)以降は出ていない。もちろん、現代における大打者である村田修一だが、プロ野球史に名を残すチャンスだっただけに、非常に悔やまれるケガと言えるだろう。
●松坂大輔(ボストン・レッドソックス)・大会3勝を挙げ2大会連続のMVPを獲得!しかし……
日本の2連覇を支えた一人は、間違いなく松坂大輔。しかし前回大会後、2009年のシーズンでは全く精彩を欠き、2度の故障者リスト入り。4勝6敗、防御率5.76とプロ入り後最悪の成績に終わった。チーム首脳陣は不調の原因をWBCと断定。世間的な認識もそれで一致していたように思う。しかし、真実は別にあったことを、後に松坂本人が週刊誌でのインタビューで明らかにしている。
「'09 年の1月早々、右足の内転筋を痛めました」
「WBCを辞退しなければいけないほど重症なのか、見極めなければならなかった。でも、体は動く。消炎剤を飲めば、痛みも抑えられる。だから……」(講談社『フライデー』2010年01月9日)
つまり、ケガそのものはWBC以前からあり、その痛み、不調をおしてのWBC出場であったのだ。結果としてMVPを獲得したわけだが、以降、松坂に復調の兆しは見られず、2011年には右ひじにメスをいれるも復活とはならず。そして2013年、WBC開幕の裏で、クリーブランド・インディアンズへと静かに移籍をしている。
「WBCとケガ」の問題に関しては、中日の落合博満監督(当時)が「故障をした時の保障もないし、自分のことを考えるのは一番の権利。全部NPBがフォローしてくれるならいいけど理想論を掲げられて一番困るのは選手だ」とコメントし、物議を醸したのを覚えている人も多いだろう。サッカー界では当たり前のメディカルチェックも、毎度議論になるものの導入には至っていない。
現在、阿部の膝の負傷だけでなく、前田健太の肩の不調が心配されている。ともに球界を代表する投打の柱。もしケガが悪化し、不在になるようなことがあれば、ペナントレースの行方も、野球人気も左右しかねない。
今回も日本代表候補だった村田修一は、右手中指の爪が割れた影響もあり最終28人の中に残ることはできなかった。その際、代表選手へのエールとして次の言葉を残している。
「個人的にケガなく帰ってきて欲しい」
村田が言うと、なんとも説得力がある台詞だ。
※本文中のチーム名はすべて当時。