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意外な「縛りが強いアメリカ野球」を体感した鷲谷修也、同級生・田中に静かにエールを送る

日本とアメリカの見る目の違い


 ビザの手続きなどもありデビューは7月となったが、ルーキーチームではすぐにポジションを獲った。

「自信っていうより、プロでやるんだっていう覚悟はありましたね。実際は結構大変でしたけど。ルーキー級のレベルは技術的には甲子園よりは下でしたけど、(メジャーへ行く)7、8割の選手があそこを通るんじゃないですか、荒削りの天才が集まっているって感じでした。そういう中でも、自分はスピードとかでやっていける、って自分で信じ込ませるようにしてました。自信っていうより覚悟ですね。もうやるしかないっていう」

 ある意味なりゆきで飛び込んだアメリカプロ野球だったが、鷲谷にはこれがフィットした。

「向こうは指導者の見る目が違うんです。日本でなら『なんでこんなやついるんだろう』って選手もいました。ポテンシャル重視なんです。例えば、日本でうまいショートって言っても、それはグラブさばきとか、速く見えるっていうところじゃないですか、でもこっちは同じ技術面でも肩が強い方が、技術が上って見られるんですよ。だから評価の仕方の違いっていうのをわかっていないと…」

 短大でのプレー経験も追い風になった。

「アメリカの方が自分は評価されると思ってました。スピードのある選手って、日本ではあふれているじゃないですか。実際向こうも速い選手はいるんですが、日本って見栄えを気にするでしょう? 向こうはそういう外面でなく、純粋な測ったタイムだけで評価するんで、そういう面でも自分向きかなとは思いました」



意外だった組織の縛り


 一方で、日米の野球の相違にも苦しんだという。意外なことにアメリカでは、日本以上に組織の縛りがきつかった。

「こっちでは、打つ時に足上げるのはタブーなんですよね。日本では、軸足に(体重を)ためて打つっていうのが普通ですよね。でも、それは評価されないんですよ。僕の場合は、短大でもそれは注意されていたんですが、自分としてはその方が間を取りやすかったんで、そのままにしていました。その方が変化球にも対応がしやすかったんですけど、向こうの考えでは、足を上げてしまうと変化球に対応できないっていうことなんです。もう見ただけで打てないって判断されてしまう。

 プロでは、組織全体でコーチが巡回しているので、その人がウチの組織の打ち方はこうだって言うと、現場もそれには逆らえないんですよね。上の指示に従えって感じですね。盗塁だって、行けたら行けっていうサインはなかったですよ。サインなしの場面で盗塁成功して、代えられたこともありました。実際は、それも三塁コーチがサイン出してたんですけど、それに対しても何も言えない。ちょっとでも口をはさめば、試合に出してもらえないですから」

 そういうアメリカを鷲谷は「アメフトみたいな国」と表現する。

「あれって、ひとりひとりの動きが決まっているじゃないですか。お前こう動け、お前ああ動けって、ベンチの指示ひとつで動く、アメリカって、自由っていうイメージがありますけど、そうではないですね。スポーツだけでなく企業も社会もそうでしょ。アメリカは組織のトップが変われば、下も変わっちゃいますよね」



 118打数29安打、打率.246という、ルーキーとしては及第点の成績を残し、さらに上のクラスでのプレーを目標に2年目のシーズンに臨んだ鷲谷だったが、4月以降も所属の決まらない選手を集めて行う延長キャンプの最中に指導者に呼び出される。

「最初は、『いよいよ昇格かな』って思ったんですよ。でも、みんな深刻な顔してるんで、ああクビだなって。ドラフト直後だったんで、入ってくる分、誰かが押し出されるってことですよね。だから他のチームももう難しいかなって」

 リリースを通告したコーチは、フライトのチケットの行き先を尋ねてきた。鷲谷は、迷うことなく東京行きをリクエストした。そこには解雇を通告されながら安心している自分がいた。

現実主義者・鷲谷修也


 その後、鷲谷は日本の独立リーグでプレー、その年のドラフトにかからなかったことで、「次」が頭に浮かぶようになった。日本の大学で学位を取ることにした彼は、翌2011年シーズン開幕直後に石川ミリオンスターズを退団した。編入試験がある11月から逆算して受験勉強の開始時期を決めるというのは、いかにも彼らしかった。

「同じレベルではできたと思いますが、それ以上うまくならないと感じましたから。野球やるなら1億円単位で稼がないと、と思っていたんですが、そこを考えた時に、自分の身体能力が永遠に続くなら可能性もあるでしょうけど、やっぱり年齢のこともありますから」

 当時、23歳。甲子園で名勝負を繰り広げた相手の斎藤佑樹は、大学を経て、鳴り物入りでプロのマウンドに上がっていた。

 話を聞いている間、彼から感じられたのは、ある意味、若者らしくない首尾一貫した現実主義だった。しかし、この質問に対してだけは、彼は少し熱くなった。

「メジャーですか。本当に行けると思ってましたよ。キャンプの時、実際メジャーの練習に行ったりもして、視界に入ってきました。いつかたどり着ける場所って感じですね。スピードを磨けばなんとかなると思いました」

 自分でも突拍子もないことだと分かっているのだろう。鷲谷は笑いながら続けた。

「今でもそう思いますよ。今だったら行けるかなって。大学では陸上やってて、体の動かし方なんかがわかってきたんですよ。だから今の方が野球うまいんじゃないかって」

 ここまで話した後、もとのクールさを取り戻した彼は、では今からもう一度メジャーに挑戦しようと思わないのかという私の質問にこう答えた。

「それは思わないですね。辞めたからこそ気づいたこともあるんですね。それは当然だと思うんですけど。まあ、当時も、思い込ませていた方が強いかもしれませんね…」

 最後にメジャーに挑戦する田中へのエールのコメントを求めると一言だけ残してくれた。

「やるからには、頑張って欲しいですね」

 言葉は多くない。しかし、おそらくは直接、あるいは人づてに聞いたであろう、鷲谷の経験は、新天地に挑戦する田中に多少なりとも響いているのではないだろうか。

 外堀の土手はそろそろ満開の桜で彩られていることだろう。同級生がメジャーデビューするこの春、鷲谷もまた新たなフィールドに足を踏み出す。

(おわり)



鷲谷修也(わしや・なおや)/1988年生まれ、北海道出身。駒大苫小牧高に進学し、2005年夏の優勝、2006年夏の準優勝メンバーとなる。高校卒業後、アメリカの短大に進学する。2009年のドラフトでナショナルズから指名を受け、日本人2人目のMLBドラフト経由で選手契約に至った。2010年6月にチームを解雇され、日本に帰国。同年7月にBCリーグ・石川ミリオンスターズに入団した。本人の希望により2011年5月に石川を退団。2012年、大学へ編入という形で入学し、今春卒業、就職する。


■ライター・プロフィール
石原豊一(いしはら・とよかず)/1970年生まれ、大阪府出身。立命館大学大学院国際関係研究科博士後期課程修了。専門はスポーツ社会学。野球のグローバル化と、それに伴うアスリートの移動について研究。既発表論文に「グローバル化におけるスポーツ労働移動の変容――『ベースボール・レジーム』の拡大と新たなアスリートの越境」など。主な著書に『ベースボール労働移民 メジャーリーグから「野球不毛の地」まで』(河出書房新社)や『エレツ・ボール 野球不毛の地、イスラエルに現れたプロ野球』(ココデ出版)がある。

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