今から14年前の1998年夏。甲子園では、横浜高の松坂大輔が決勝戦でノーヒットノーランを達成し、同じ日に、阪神のエースだった村山実さんが亡くなる、という出来事もあった8月の終わり。ベーブ・ルースが来日したことで知られる、1934年の日米野球に出場した全日本軍の生き証人、苅田久徳さんに会いに行きました(上の写真、左の人物です)。
取材陣は総勢5名。ライターの僕が野球人の取材は初めてで心許ない、ということで、編集者に撮影担当助手に加え、経験豊富なスポーツライターと野球研究家の方にも同行をお願いしたのです。
横浜市磯子区にあるご自宅は大きなおうちかと思いきや、意外にも、こぢんまりとしたアパートの一室。苅田さんは、ここで奥様とふたりで暮らしていたのでした。
畳敷きの部屋におじゃました後も、意外な光景に驚かされました。奥様が和服姿だったのに対し、苅田さんはグレーのTシャツに白いコットンパンツと、いたってラフな洋装だったのです。しかも、白髪交じりの長髪をうなじのところで束ねていて、片膝を立てて座っている様子も含めてかっこいい。とてもとても、88歳というご高齢の方には見えません。
唯一、年齢を感じさせたものは右耳だけに付いている補聴器でしたが、取材中、話が盛り上がった勢いで耳から外れてしまってもお構いなし。いたって元気なのです。
ただ、聞こえにくいぶん、対話が若干、スムーズにいかないこともありましたし、エアコンのない部屋だけに苅田さんは当初から暑がっていた。冒頭、「こんな暑い日はね、取材は断ってんの」と言われていたので、どこまで昔の話を聞けるのか……。書き手の僕は緊張と不安で何度も息苦しくなったものです。
それでも、苅田さんのべらんめえ口調による野球人評、試合での思い出話はユーモアにあふれていて、僕らは何度も大笑い。[伝説の名投手]沢村栄治も、苅田さんから見れば可愛い後輩で、「アメリカ遠征の時にアイスクリームを買ってやったんだよ」なんて話を聞いたら、「沢村賞の沢村」のイメージもかなり変わりました。さらにはべらんめえ口調全開になって、僕らが子どもの頃に伝記で読んで知ったベーブ・ルースのことを、「ベーブ・ルースの野郎」と言ったときには一同爆笑でした。
一方で、実は法政大時代にもアメリカ遠征に行っていた苅田さん。ニューヨークで大リーグの試合を観戦したときに二遊間の動きを学んで、自分たちのプレーに採り入れた話などを目の前で聞くと、“日本プロ野球の始祖”としての功績は計り知れないんだな、と実感させられました。
僕自身、取材の場でいちばん印象に残ったのは、テーブルに置かれていたメモ用紙です。新聞の折込広告を切って束ねてクリップで止めたもので、苅田さんは何度かそれをめくって見ていました。めくりながら、僕に向かってこう言われたのでした。
「せっかく来てもらったんだから、わたしは目新しい話をしてあげたい。これまで話したこと、どこかで本になって出ているらしいけど、そういう話の二番煎じじゃつまらないでしょ?」
この言葉が、「伝説のプロ野球選手に会う」ということの原点になりました。昔の野球人の伝説的なエピソードに興味を持って、ご本人に会いに行けたとしたら、できる限り目新しい話を聞き出して、話を物語のように加工しないで読む人に伝えたい――。
原稿を初めて形にするときには、2時間にも及んだ長大な話をどうまとめればいいか、悩みました。苅田さんの話は独り語りのように続いたので、到底、一問一答式のインタビューにはならないからです。かといって、体裁よく仕上げようとしたら加工された物語になりそう……。
考えあぐねたとき、同行した編集者から、「取材する前から終わった後まで、すべてを書き切るしかないんじゃない?」と言われて勇気づけられました。そして、そのようにして書き綴って雑誌に載せてもらった記事が『88歳の[名人]苅田久徳インタビュー 日米野球の生き証人に会いに行く』です(記事は単行本化に当たって加筆修正され、<88歳の[名人]の片鱗が光った瞬間>と改題。11月刊行の文庫版にも収録される)。
※苅田久徳さんの写真はベースボールカードです。