前回、「運命のアーチ」
楽天との競合に勝ち、ロッテが西岡剛以来となる「高卒内野手1位指名」で超高校級の遊撃手を獲得。走攻守に才能を見せ、1年秋から仙台育英のレギュラーをはってきた男は小学校入学前から異彩を放っていた。
高崎中ではバドミントン部に所属し、七ヶ浜シニアでプレーした。「プロになりたい」という思いは、野球少年なら誰でも抱きそうな淡い夢だった。七ヶ浜シニアでは全国大会を経験したものの、自信はなし。兄、妹、弟の4人きょうだいということもあり、高校は公立か特待生として勧誘してくれる私立に行こうと考えていた。
と、ここまでは聞いてきたことだったが、ドラフト後にあらためて訊ねると、「これ、記事になりますか?」と聞いてきた上で、こう話してくれた。
「正直に言うと、育英でレギュラーを取れると思っていなかったので…」。
強豪でやっていく自信なんてなかった。その上、誘ってくれたところならまだしも、仙台育英は勧誘をしていない。父の「育英に行け」の一言に「無理だから」と反論。最終的には「行ってやるよ」と、心を決めた。そして、誓った。
「レギュラーを取ってやる」
仙台育英・佐々木順一朗監督は付属の秀光中も含め、選手の中学時代を一切、見ない。そのため、入学後に行う1年生だけの練習日
で現時点での実力を把握する。
平沢のバッティングには20年の指導歴でも驚いたという。
「バットをこんなに振れる子は見たことがない」
ただ、練習試合で起用すると結果は出なかった。そこで、5月の千葉遠征のとき、「せっかくあんなに振れるのに、なんで思いっき
り振らないんだ。詰まってもいいから思いっきり振れ」と助言。すると、センターに詰まったかと思われた打球が本塁打となった。
「バットを振れるという点で、こいつはすごいことになるんじゃないかと思いました」
スイングスピードが速い分、引きつけて打てることも魅力だった。そして、打ち上げたフライがとてつもなく高かった。つまり、
フライの滞空時間が長かった。
「単なるフライがみんなの倍くらい高く上がって、落下する時もものすごい速さ。内野手も外野手も追いつかなくて、ポテンと落ちて二塁打になっていましたね」
入学前、平沢が「育英でレギュラーなんて…」と思っていた心配は杞憂に終わった。1年春から公式戦を経験し、その秋には遊撃手のレギュラーとなった。
「あの負けから始まったので」
平沢が言う、「あの負け」とは2年夏のこと。仙台育英は4回戦で東北学院に延長13回の末、敗れた。平沢は本塁打性の当たりを打ったがファウルゾーンに切れた。
「フェアにならなかったのは、何かあるんだと思いました」
何故、ファウルになったのか。あの打球が入っていれば――。「自分のせいで負けた」と、思った。
レギュラーとして、責任感を強く持つようになった。秋以降、コンスタントに結果を出せたわけではなかったが、大事な場面で打ってきた。県大会1回戦は平沢の打点で勝利。勝てばセンバツ大会出場の当確ランプが灯る東北大会準決勝でも打った。明治神宮大会は決勝で本塁打。夏の敗戦から、秋の日本一に駆けあがった。
次回、「人生初の骨折」
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)