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山田久志に可愛がられ、松坂大輔の女房役を務め、29年の現役生活を全うした「ラストブレイブ」中嶋聡

★阪急ブレーブスに所属した最後の選手

 中嶋聡を初めて見たのは1988年。予備校通いの傍ら、夜な夜な西宮球場に逃げ込んでいた時だ。僕の前に強烈な「鉄砲肩」を持って現れた19歳、それが中嶋だった。秋田の鷹巣農林という高校球界でも当時聞きなれなかったチームから入団した2年目の選手。1969年3月27日生まれだから、あと6日誕生が遅ければ僕と同級生でもあった。

 阪急ブレーブスが存続していれば来年が創立80年になるところだった。まだ僕の中に「阪急」はあり続けるが、中嶋の引退でいよいよ「阪急」を感じる選手がNPBから姿を消すことになる。思い出深い選手に対して失礼を承知の上で書かせてもらうが、“まさか”あの中嶋がこれほどまで長くプレーするとは思いもしなかった。

阪急期(1987年〜1988年):同郷の大先輩・山田久志の薫陶を受ける


 「阪急の中嶋」を記憶している人はほとんどいないだろう。それも仕方のないことで中嶋が73試合に出場し、実質1軍デビューを果たした1988年に阪急が球団をオリエントリースに売却し、その歴史に突然、幕を降ろしたからだ。ちなみに、その発表があったのは10月19日。近鉄バファローズが逆転優勝を目指し、ダブルヘッダーでロッテオリオンズと戦った、球史に残る「10・19」と呼ばれることになる、あの日だった。

 ただ、僕の中にははっきり「阪急の中嶋」の姿が今も残っている。球団売却の発表から4日後、ロッテとのダブルヘッダーが阪急ブレーブスのラストゲームになった。同時に第2試合は山田久志の引退試合としても予定されていた。その試合で通算284勝目を飾った大エースが女房役に指名したのが中嶋だった。

 同じ秋田の出身ということで、山田は中嶋を入団当初から可愛がっていた。1軍でマスクを被るようになった1988年は、自らの引退をかけた苦しいシーズンの中、時間を見つけては中嶋にプロの野球、プロの配球を伝えていく。引退後には自らの秋田の後援会を中嶋に継がせたということもあった。そんな大先輩の恩に報い、阪急の最終戦でダメ押しの一発。阪急の歴史に幕を降ろす試合でのプロ2号本塁打は「ブレーブスの次世代を担う顔」としての将来を約束するものに思えた。

躍進期(1989年〜1997年):歴代の強肩捕手に勝る肩の「強さ」


 「オリックス・ブレーブス」になった初年度にはブーマー、門田博光、石嶺和彦、藤井康雄、松永浩美……。「ブルーサンダー打線」と名付けられた超攻撃型メンバーが並んだ中で、中嶋の定位置は8番・捕手。

 とにかく売りは肩。特にほどほどのキャッチボールだけで臨んだオールスターゲーム時のアトラクションで146キロを記録した「強さ」は強烈だった。

 捕ってからの速さ、コントロール……様々なタイプの強肩捕手はいたが、「強さ」という点で中嶋は別格。梨田昌孝(元近鉄)だ、城島健司(元ダイエーほか)だ、炭谷銀仁朗(西武)だ、と言われても、この中嶋の「強さ」に敵うものはいないだろう。あまりの強さゆえに送球を制御することが難しかったのか、二塁送球はしばしば右へ逸れるか、押さえが利かず高目へ浮いた。そのため、盗塁阻止率もその強さほど高くはなく、オリックスのレギュラー時代も阻止率が4割を超えたことはなかった。

 当たれば長打のパンチ力を備えていた打撃は外の球に脆く、ムラがあった。それでも1990年には故障があり95試合の出場ながらも、打率.283で12本塁打。おそらくこの年が最も好調だった。しかし、7月から9月の試合を欠場。ベストシーズンを作り損ねた。

 1991年も12本塁打を放った。しかし、以降は数字を落とし、1990年代半ばからは高田誠、三輪隆らに出場機会を奪われることも多くなる。捕手として細やかなリードをするタイプではないことが1994年からチームを率いた仰木彬監督の野球観に合わなかったのではないかと推測する。

移籍期(1998年〜2003年):メジャー断念から複数チームで正捕手争い


 阪急、オリックスで11年プレーした中嶋がメジャー挑戦を掲げ、チームを離れたのが1998年。打撃面を考えれば思い切った決断に思えたが、その大胆さもまた中嶋らしく感じたものだった。僕の中ではNPB史上最強の肩がメジャーのグラウンドでどう見えたのか、確認してみたかったが……思いは叶わず。

 一転、入団した西武では松坂大輔登板時の女房役として記憶しているファンも多いだろう。先にも触れたが、おそらく中嶋は緻密なリードを得意とするタイプではなかった。だから松坂と呼吸が合う、というところからの起用には納得がいったものだった。古くは山口高志の女房役に抜擢された河村健一郎(ともに元阪急)や野茂英雄の時の光山英和(ともに元近鉄ほか)といったイメージだ。オリックス時代には超スローカーブの使い手・星野伸之ともバッテリーを組み、活躍したが、松坂と星野は両極端のようで“シンプルさ”という点で共通する、中嶋向きの投手だったのだろう。

兼任期(2007年〜2015年):コーチを兼任し、厚い信頼を置かれる兄貴分に


 だから、日本ハムへ移籍後、ここまで長く、そして晩年は兼任コーチとしてポジションを変えていった姿が、僕の中では少し意外でもあった。ただ、DCブランドが流行った時代にプロ入りし、阪急では星野や小川博文あたりとともにお洒落な選手として取り上げられていた。そういった今の時代につながる“軽さ”も、ともすれば今の時代の選手に合ったのだろうか。


 西武のあと横浜を経て、2004年から日本ハムで12年。2007年からは1軍バッテリーコーチを兼任しながら現役を続けた。そして、今年の4月15日のロッテ戦で出場を果たし、現在ソフトバンクの監督である工藤公康が保持していたNPBの1軍実働年数29年の記録に並んだ。そして、10月1日に開催された引退試合で現役生活に幕を降ろした。


★引退→コーチの既定路線ではなくフロントへ

 一昨年の日本シリーズで、札幌ドームの駐車場で日本ハム投手陣の配球について取材したことがあった。僕の中ではいつの時も、どんな時も「元阪急の中嶋」。話題とは別のところで妙に昂ぶったことを覚えている。

 引退後は日本ハムのGM特別補佐に就くというが、やはり若き日の中嶋を知る者とすれば、また選手兼コーチを務めていただけに、そのままコーチ専任にならなかったことも含めて、意外な人事だった。しかしそれも29年という長い間、プロ野球界で揉まれ続けた結果であり、中嶋もあの頃からは大きく、広く成長したのだろう。現役時代にロングインタビューを出来なかったことが心残りだ。



次回1月5日(火)は『プロ野球引退物語2015』高橋由伸編と谷佳知編を公開予定(*本文中の年俸は全て推定)



文=谷上史朗(たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。関西を拠点とするライター。田中将大(ヤンキース)、T−岡田(オリックス)、中田翔(日本ハム)、前田健太(広島)など高校時代から(田中は中学時代から)その才能に惚れ込み、取材を重ねていた。近著に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)がある。

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