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今、“夏の甲子園のエースとは何か”を考える。“球数問題”“継投策”の時代にマウンドを背負う男とは?

取材・文=山本貴政


 最近の高校野球で大きな問題となっているのが、“投げすぎからくる故障”を配慮した投手の“球数問題”(連投問題含む)だ。大船渡の佐々木朗希が岩手大会決勝での登板を回避した判断は賛否両論の物議を醸した。

 もちろん体のできあがっていない高校生に過度な負担をかけるのはよくない。ならば実際問題としてルール的に“球数”に制限をかけられるのか。投げすぎの基準として、明確な科学的根拠を定かにしづらいなか、模索は続く。

 今回の週刊野球太郎は、この“球数問題”を通して、“俺が投げ抜く”という矜持を持った日本野球的エースの存在意義と“夏の甲子園”の関係性、引いては日本の野球文化の肝を探るべく、本誌『野球太郎』の持木秀仁編集長とカバディ西山を直撃した。

甲子園は日本野球文化の根源。線引き不能の“球数問題”をどうとらえるか


−−投球数の制限をルールで定めるには賛否両論あります。また、エースに対する価値観の問題もからむため、指導者や選手には反対の声もあります。一方で複数投手体制によるローテーションが珍しくなくなり、以前ほど背番号1(エース)と、他の投手とを隔てる壁は低くなっているようにも見えます。その状況のなか、球数問題をどうとらえていますか。

西山 理想は、どれくらいの球数を放るのかは選手と監督との間で決めてほしい。ルールとして決めることはないと思います。ただ、エースに頼らざるを得ないチーム事情のとき、現実的に“投げさせない”判断をできるのか。それは難しいところです。

持木 “球数問題”の難しいところはあらゆることの線引きが難しいところです。そのなかで、1990年、91年の夏の甲子園で準優勝したものの、一人で投げ続けて投手生命を失ってしまった大野倫さん(元ダイエー、プロでは野手としてプレー)が語った「ルールを決めておけば、誰も悪者になることはない」という言葉は説得力がありました。
 あるいは、それでも無理やり線引きをするならば、学業のように“できる子とできない子”、“投げたい子と投げたくない子”でクラス分けして自主選択できるようにすると納得する声が挙がるかもしれません。ただ、それは極論ですし、そうなると……。

−−田舎の公立校が強豪私立に立ち向かったり、チーム力の低い高校が一戦一戦力をつけていくという甲子園のドラマ、醍醐味がなくなります。

持木 はい。僕は日本の野球文化の根源こそ、甲子園の存在価値にあると思っています。“球数問題”をはじめ様々な問題はありますけれど、甲子園があるから日本の野球文化が守られてきた部分は大きい。夏の甲子園につながる地方大会からのシステムを老若男女が理解して応援する。こんなに国民を巻き込むスポーツ文化は他にありません。

−−甲子園が日本の野球人気を底支えし、そのおかげで一流選手が億単位の年俸を稼げる“興行”としてのプロ野球が成り立っているとも言えます。

持木 そういう見方もできます。そこでクラス分け、ルールの基準などで甲子園の在り方を細分化してしまうと、野球そのものが国民的なスポーツではなくなってしまう可能性は否定できません。もちろん、ピッチャーの体のことを考えるならば“球数制限”はよしとなるんでしょうけど、スポーツ文化の側面としては……。考えることの多い問題です。

西山 夏の甲子園については日程を変更しよう、球場を複数にしよう、という意見があります。その一方で甲子園だから目指している選手がいることも事実です。それに日程については、部活動ですから夏休みの間でないとあの規模の大会は開けません。また、酷暑のなかで戦うことを美談にするなという声もありますが、だからこそのドラマが人気の理由であることも事実です。長い目で見て何が最善なのか……。

−−指導者、選手のスタンスも様々ですし、答えが出ないですね……。では“球数問題”に対する具体的な改革は浮かびますか。

持木 ベンチ入りの選手を25人くらいに増やすことは考えられますよね。そこでピッチャーをたくさんベンチに入れてローテーションで回していけば、負担は減ります。あと、ホームランが減ることで人気が落ちるかもしれませんが、ヒット、ホームランの出にくい木製バットに変えれば球数は減って、ピッチャーの負担は減るという考え方もあるでしょうね。

−−その英断ができるか。それも難しいです。ただ、ベンチ入りの人数が増えれば、ブルペンではあまり光らないけど、実戦に強いピッチャーや、粗削りだけどいいものを持っている素材型ピッチャーなど、“知られざる逸材”が陽の目を見る期会が増えそうです。

持木 そういうピッチャーにもチャンスが回ってくることはいいことですよね。どうしても計算できる器用なピッチャーが重宝されがちですが、今は継投策という点でも、練習試合が増える傾向にあるという点でも、素材型のピッチャーや、投げる能力の高い野手に投げさせるケースが増えるのではないでしょうか。

西山 となると“使ってみたらよかった”というピッチャーが出てくる可能性は高まります。ただ、そのことは指導者の方もわかっていることです。そこで継投策を念頭にたくさんのピッチャーを育てようとしたものの、うまくいかず、エースと心中せざるをえない状況になるかもしれません。あるいはエース以外のピッチャーをマウンドに上げて負けてしまう。そうなるとエース以外に頼りになるピッチャーを育てられなかったのが悪い、と外部から言われることにもなってしまいます。いずれにせよ、継投策にからめてみても“球数問題”はやはり難問です。

 2人は“球数問題”がクローズアップされるなか、今夏の甲子園を「監督が継投にすごく気を使っているように見えた」と振り返った。印象に残ったのは以下のチームの継投を見据えた投手事情と、その顛末だったという。

 “三本の矢”と呼ばれる3投手の継投策で夏の甲子園で準優勝するなど早くから継投策を意識していた多賀章仁監督が、エース・林優樹に頼らざるを得なかった近江。昨年秋の敗戦をきっかけにエース・不後祐将以外の2番手を育てて躍進した中京学院大中京。絶対的エースの不在をカバーすべく枚数をとにかく増やした投手陣で臨んだため二遊間のバックアップが手薄になった東海大相模。1年生バッテリーの起用を含めて戦ってきたものの準々決勝でハマらなかった仙台育英。同じく準々決勝で控え投手を先発させて手痛い失点を喫した八戸学院光星……。いずれも歴戦の指導者が率いるチームながら、あらためて継投の難しさを感じさせた。

勝敗を背負って立つ心意気があってこそのエース


 “球数問題”に頭を悩ませるなか、それでは“夏の甲子園のエース”とはいかなる存在であるべきなのか。また、その姿は変わっていくものなのか。炎天下でマウンドを守り投げ続ける“背番号1”は夏の甲子園の象徴である。ならば日本の野球文化の行く末に深く関わる問題にもなってくる。

持木 “夏の甲子園のエース”とは印象に残るピッチング、いわゆる“甲子園の申し子”と語り継がれるピッチングをしてのけたピッチャーです。そうでないと“夏の甲子園のエース”とは言えないのではないでしょうか。それは、たとえ負けそうでも、私生活では仲がよくなかったとしても、“最後はアイツが投げて終わるんだ”“アイツで負けるならしょうがない”と思わせる存在です。

−−そして、そんな仲間の思いに応えられる矜持を持った存在であると。

持木 要は(監督の次に)チームの勝敗を背負って立つ心意気をもったピッチャーのことですよね。そんなエースの奮闘を見て一致団結、劣勢を跳ね返す結果に結びつくここともあるでしょう。

西山 少し似ていますが、先発で大量失点したものの、守備で残っているエースが試合終盤にマウンドに戻ってくるケースがあるじゃないですか。地方大会ではコールド負け寸前によく見られますが、やっぱり勝っても、負けても、“最後はアイツがマウンドにいてほしい”。そう思わせるのがエースかと。特に選手同士の気持ちのつながりでは、そうあってほしいと思います。

持木 ただ、子どもの気質が変わってきていますし、“球数問題”へと世間の目がさらに向くことも考えられますので、いずれはそんな伝統的な価値観を持ったエースはいなくなるのかもしれません。

−−かつての高校生は荒ぶるところが大きいというか、刹那的な思想にとらわれることが今より多かったですからね。そう思うと今、ローテーション、球数という意識を高めていく選手が増えていくとすると、それは……

持木 計画的で理性的な気質に変わっていくんだと思います。日本のプロ野球の話になりますが、今MLBを頂点とするなかで、アメリカナイズされている側面があります。先発ピッチャーは年間ローテーションを守る、クオリティ・スタートを果たすことが重視されています。

−−ただ、高校野球が合理的な育成法だけになると、結局、将来的には体の大きな外国人選手には叶わないという結論に達して、日本人ピッチャーがMLBで活躍できる余地がなくなる可能性があります。もちろん選手の体は大事ですし、これは“マウンドを死守”という根性論や日本的すぎる情緒に偏りすぎる危険性を孕んだ話なので難しいのですが、ちょっと気になります。

持木 アメリカ的な合理的思想だけで進めていくと、今、MLBでよいとされている“日本人ピッチャーの芽”を摘んでしまうような気がしています。つまり、これは日本人ピッチャーの“質”の話です。健康を害するまで投げるのはよくないことですが、MLBで成功している日本人ピッチャーは、ギリギリまで追い込まれたところで勝負をして実力を蓄えてきた人たちですから。

−−高校生の体をケアしながら、日本人ピッチャー独特の質や精神性を失わず進めていく。そうして日本の野球文化もプロスポーツとしての野球も発展させていく。これは“球数”だけを見ればすぐに解決できることではなく、背景や未来を含めると大きく、複雑な問題ですね。

持木 先程言いましたが、“球数問題”は一概に線引きできないのが難しいところです。ただ、極論ではありますが、高校野球の段階で制限をかけすぎてしまうと、これまであった甲子園を土台にした日本の野球文化の喪失につながる恐れがあると言えます。その分、合理的なトレーニングや技術の向上で、世界的な野手が生まれればいいのかもしれませんが。いずれにせよ、時代の移り変わりとともに答えを模索しなければならない問題なのでしょう。

 エースの存在意義を探るなか、“合理的”の代名詞として出てきたMLBだが、ポストシーズンでは主力投手が連投を見せることがある。投げすぎをいとわず、むき出しの闘志をマウンドで見せることがある。

 “夏の甲子園のエース”とは、あまりにも日本情緒に過ぎるかもしれない。しかし、広くスポーツ全般で使われるエースの語源は、1890年代後半に活躍したプロ野球選手、エイサ・ブレイナードの“エイサ”だ。MLB誕生(1876年)前夜の1869年、当時のプロ野球リーグでブレイナードは全69試合中で65勝を挙げる(諸説あり)。この驚異的な投げっぷりから最高の投手がエースと呼ばれるようになったと言われている。歴史的に見て、必ずしもアメリカ人投手が合理性だけにとらわれているのではないという気持ちにもなる。

 ルール、規制、教育的見地、体の保護、精神的鍛錬、日本的情緒、アメリカ的合理性……と様々な問題が“球数問題”が絡み合う。それは歴史、文化、国民性を背景にした話でもある。夏の甲子園大会が101回を迎え、さらに先へと進んでいくなか、一概に答えの出ない“球数問題”をそれでも考え、日本の野球文化の発展へとつなげていきたい。

取材・文=山本貴政(やまもと・たかまさ)

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