最後の試合が終わり10日も経過していたが、土井父は「空虚感」に苛まれていた。
病気で留年した塁人(父自身の現役時代のポジションが二塁だったので、「塁を見守る人」の気持ちを込めて名づけた)がプレーする高校野球は、昨夏の大阪大会ベスト8で終えていた。以降は個人練習や記録員をする塁人を見ながら、陰ながら下級生チームを応援するのが土井父のスタンスだった。
しかし、強豪校・東大阪大柏原とのコールド負けの戦前予想を覆す善戦に「よくやった」と感動し、おののいた。チーム力は落ちるが「逆転のPL」は受け継がれていると感じた。
一方、高校野球の象徴であるPL学園が一旦、最後の夏を迎えた現実を受け入れられない空虚感にも襲われた。
勝負事において「勝ち」よりも「負け」を引きずることが、往々にしてある。土井父の場合も、「よくやった感」よりも「空虚感」を引きずっているかのようだった。
【2014年11月】
PL学園側から、父母会へ文書にて「スカウト自粛」による野球部員募集停止の連絡。
前後して、塁人は「休部の憶測」とは違う「地獄」と戦っていた
【2013年10月15日】
何の前触れもなく、塁人は生存率20〜30%の「急性リンパ性白血病」を発症する。土井父が塁人に病名を伝えたとき、大泣きをして「(病気になって)ごめん」と一言発した。野球で恩返しできなくて「ごめん」の意味だった。
しかし、土井父も塁人も「死」は一切考えなかった。
「必ず、野球に復活する」。死の恐怖に対して、この気持ちが勝った。告知された入院期間である1年を、奇跡的に5カ月足らずで退院にこぎつけた。
【2014年2月28日】
退院。
今度は肉体的な「地獄」が待っていた。同級生に比べてやせ衰えている。技術も落ちている。抗がん剤を打ちながら、歯を食いしばった。
【2014年秋】
新チームになり、メンバー落ち。
そして、2回目の「ごめん」。
土井父は塁人の「ごめん」に対して、「親に気を遣わなくてもいい。悔いが残らないよう野球に打ち込め」と心の中で答えた。
何も謝る必要のない「ごめん」である。親の方が謝りたい気持ちだった。
【2014年冬から2015年春】
塁人は走った。バットを振った。
「練習試合ではミスできない」「シートバッティングでは絶対打つ」「ノックではエラーなし」の自らに課したプレッシャーが重くのしかかる。
【2015夏】
メンバー入りを勝ち取る。
発症から約1年8カ月。ようやく、親子共々笑える状態となった。
大阪大会準々決勝、塁人、最後の試合。
塁人はネクストバッターズサークルで敗戦を迎えた。
「悔しい」と思うと同時に、その気持ちに勝ったのは、野球の神様の啓示に触れたからだ。
まだ続きがある、と。
2015夏の大阪大会・準々決勝敗退後、塁人は出席日数不足で留年した。
高野連規定でプレーできない塁人は、新チームから記録員として練習試合が終わったポイント毎に、豊中リトルシニアの指導をする土井父に電話をかけてきた。塁人もまた、PLの采配を振るっていたからだ。
土井父によると、塁人と自分の采配が一致する確率は約70パーセント。
最後の試合となった東大阪大柏原戦では、不思議なことに100パーセント一致したという。しかも、キーポイントの初回と6回無死一、二塁でバント、という采配も一致したのだが失敗に終わった。「『たられば』論だが、あの場面は畳みかけて大量得点を奪う機会だった」と、土井父は悔しそうに述懐した。
親子の符号に対して、土井父は負けた悔しさをにじませる一方「安堵感」ものぞかせていた。
土井父は賛否両論あるPLの寮生活を、先輩から礼儀・気配り・言葉使いなどを学び、野球へとつなげる「PL野球の神髄」と語る。ひいては「教育のある野球」だという。「教育のある野球」だから勝負に徹する「勝負論のある野球」につながるのだ、と結論づける。
絶対なくしてはいけないし、復活のために、応援したいと思っている。
一方、塁人に関しては「バリバリ野球できますよ」と父親の笑顔で近況を教えてくれた。
入院中に調べてわかったことは、白血病にかかり、スポーツで復活した人が少ないことだ。
「二重苦でメディアに注目されたことは、むしろ、感謝している。息子が病気を克服することを次世代に伝えたいし、病気のお子さんをもつ方の役に立つのなら、親の気持ちも伝えたい」
インタビューを終えて、部屋を出た。
土井親子から放たれる光が、夏の照りつける日差しとシンクロする。
文=濱中隆志(はまなか・たかし)