今夏、100回目を迎えた夏の甲子園。100回大会を記念して、これまでの甲子園の歴史から100のトピックスを厳選して紹介したい。第9回は高校野球につきものの“悲劇”をピックアップ。
【81】甲子園の魔物に食べられた!?
1998年夏の初戦、日大東北と宇部商の試合で事件は起きた。6回裏、宇部商の攻撃、打者・清水夏希の放った打球はレフトの最奥へ。日大東北の左翼・渡辺功之がこれに追いつこうとレフトフェンスに飛び込んだが、打球はフェンスに跳ね返り、グラウンドを転々。ランニングホームランとなった。
その間、左翼の渡辺はフェンス際で倒れたまま。審判団が駆けつけると、フェンスと地面のわずかな隙間に右手が挟まっており、動けなくなっていたのだ。甲子園の魔物のなかでも最も珍しい「選手の腕を食べる魔物」が出現した瞬間だった。
【82】延長15回の結末……
同じく1998年夏、2回戦に勝ち上がった宇部商も悲劇的な結末を迎えた。豊田大谷との試合は2対2で延長戦に突入。宇部商の2年生エース・藤田修平は暑さで意識が朦朧とする中、気持ちで豊田大谷打線を抑えていた。しかし、15回裏、無死満塁のピンチを迎える。セットポジションに入った藤田だが、キャッチャーとのサインが合わず、瞬時に腕を戻した。これがボークの判定。サヨナラボークという無情な結末を迎えてしまった。
のちに藤田とキャッチャーの上本達之(元西武)はともに「審判のナイスジャッジだった」と語っている。
【83】世紀の落球
島根勢で今も語り継がれる悲劇といえば、2010年夏の1回戦、開星と仙台育英の一戦だろう。9回表、1点を返され5対4、開星はなおも2死満塁の大ピンチを迎えていた。マウンド上には、当時2年生の“島根のジャイアン”白根尚貴(DeNA)。スライダーで打者を泳がせ、打球はセンターへのイージーフライ。白根は両手でガッツポーズを作った。
しかし、中堅手の本田紘章がまさかの落球。2者が生還し、一気に逆転を許した。落球ばかりが脳裏に刻まれるが、まだ続きがある。9回裏、開星は2死一、二塁のチャンスを作り、バッターボックスには糸原健斗(阪神)が向かった。ここで糸原のバットが一閃。左中間に鋭い打球を飛ばし、糸原はガッツポーズを作るも、仙台育英のレフトがジャンプ一番の好捕。ゲームセットとなった。
「勝ったと思った」。当時の選手たちが口々に語る油断が勝負の分かれ目だった。
【84】黎明期の悲劇
悲劇は今にはじまったことではない。高校野球黎明期に悲劇を味わったのは、地元・兵庫の関西学院中だった。1917年夏、鳴尾球場で開催された第3回大会決勝、関西学院中対愛知一中の一戦いで悲劇は起こる。6回表に1点を先制した関西学院中。しかし、その裏、曇天だった空が荒れだし、試合は6回裏2死で中断。雨天コールドゲームになってしまった。当時の規定では6回終了で試合成立。寸前のところで優勝はお預けに……。
ご察しの通り、翌日の再試合では愛知一中に延長14回の死闘の末、0対1で敗れた。
選手たちは雨天でもやる気満々だったらしいが、当時は審判が袴姿。審判が雨で重くなっていく袴を嫌ったのだろうか……。和装の審判が鳴尾球場の“魔物”だったのかもしれない。
【85】歴史あるファーストストライクを奪われた!
1915年に豊中球場で開催された第1回大会でもプチ悲劇があった。高校野球の幕開けとなる“第1球”を投じたのは鳥取中のエース・鹿田一郎……だったのだが、記録上はなぜか2球目。実は始球式を務めた村山龍平(大阪朝日新聞社社長)の1球が公式記録でストライクにカウントされていた……!
【86】幻の甲子園
1942年の甲子園は「幻の甲子園」と言われる。1941年の甲子園は戦時中のため、中止になっていたが、1942年には文部省の通達で急遽開催することに決まった。主催の朝日新聞はこれまでの全国中等学校野球大会の回数、優勝旗を引き継ぎたいと申し出たが、国はこれを却下。「戦意高揚」を目的とした大会として、文部省の主催で行われた。
さらにルールも軍事色が強いものに改変され、選手交代は原則禁止、打者は球をよけてはならない、球に当たっても死球にはならない、など過酷なルールの下での開催。エラーをすると軍人に殴られたとの証言もある。徳島商が優勝を手にしたが、この大会は高校野球の正史には残らず。優勝旗と賞状はのちの徳島大空襲で消失した。
【87】捨てることを余儀なくされた“外国の土”
1958年、沖縄代表として甲子園に初出場した首里。1回戦で敦賀に敗れ、甲子園の土を持ち帰ったものの、那覇港で待ち受けていたのは手荷物検査だった。当時の沖縄はアメリカ統治下。甲子園の土はいわば、“外国の土”であり、検疫を経ずに持ち込むことはできず、選手たちは泣く泣く思い出の土を手放すことに。これがメディアで報じられ、沖縄返還運動は一段と加速した。
【88】降雨ノーゲームで大勝が無効に…
甲子園では非情な雨がつきものだ。近年、最も悲劇的な雨のハプニングに巻き込まれたのが2003年夏の駒大苫小牧。1回戦で倉敷工と対戦した駒大苫小牧。2回に打者13人の猛攻で7点を入れ、4回裏突入時点で8対0。ワンサイドゲームにしつつあった。しかし、4回裏に雨足が強くなり、降雨ノーゲームに。翌日の再試合では倉敷工が息を吹き返し、2対5で駒大苫小牧は姿を消した……。
この悔しさをバネに駒大苫小牧は翌夏、大会記録のチーム打率.448の猛打で全国制覇。悲劇からの栄冠。ストーリー性も面白い。
【89】レジェンドも魔物に襲われた!
今夏、“魔物”が真っ先に牙を剥いたのは、なんと松井秀喜だった。開幕日にレジェンドシリーズの1人目として、始球式に登場した松井だったが投球はワンバウンド。まだ、44歳のレジェンドとしては悲劇的な投球に笑顔で頭を抱えた。始球式後、「甲子園の魔物に襲われた」とコメントしたが、あながち冗談でもないだろう。
【90】今夏も悲劇を味わった中越
夏の甲子園の“悲劇”が凝縮されたシーンといえば、サヨナラ負けだろう。今年、1回戦で慶應義塾に2対3のサヨナラ負けを喫した中越は、人一倍その悔しさを味わっている。2015年夏は滝川二に3対4でサヨナラ負け、2016年夏には富山第一に0対1のサヨナラ負け。夏の甲子園出場3大会連続で1回戦サヨナラ負けを喫している。
文=落合初春(おちあい・もとはる)