連日熱戦が続く甲子園大会。高校野球100年を謳う今大会まで行われてきた決勝戦にスポットを当てるこのコーナー。今回は昭和時代後半に行われた、決勝戦を選りすぐって紹介しよう。
1946年(昭和21年)
――第28回大会決勝
京都二中|000|000|000|0
浪華商 |000|001|01×|0
敗戦からちょうど1年後の8月15日に開幕した今大会。甲子園球場は占領軍に接収されて使用できず、西宮球場で開催されたのだった。
混沌とした時代で、野球の技術力低下は甚だしかったという。しかし、決勝進出した2チームは洗練されていた。浪華商・平古場昭二と京都二中・田丸道夫の両エースの投げ合いで息詰まる決勝戦となり、0-0で迎えた6回に試合が動く。
浪華商の角家巌が放った右中間二塁打がタイムリーヒットとなり、浪華商が先制。8回にも四球で出塁した走者が、三塁へ盗塁。京都二中の捕手の悪送球を誘い、1点を追加。平古場は完封勝利をおさめたのだった。
1969年(昭和44年)
――第51回大会決勝
■1試合目
松山商|000|000|000|000|000|000|0
三沢 |000|000|000|000|000|000|0
この大会は、史上初の決勝戦引分け再試合が行われた。結果からいうと、18回の出場回数を誇り、3度の優勝経験を持つ松山商が、2年連続2度目の出場を果たした三沢を破り、4度目の全国制覇を果たしたのである。
まずは、松山商・井上明と三沢・太田幸司の壮絶な投げ合いとなった。7回、松山商は2死満塁、三沢は2死一、二塁のチャンスを掴むも、それぞれ無得点。延長に入った15回裏には三沢は無死一、二塁、16回も1死満塁のサヨナラのチャンスを迎えたが、どちらも得点できず、延長18回を終えて0−0、4時間16分の試合は大会規定により、引き分けに終わった。
■再試合
松山商|200|002|000|4
三沢 |100|000|100|2
翌日の再試合は、松山商が連投の太田を攻めて2点を先取。三沢もその裏、1点を返すものの、以降は打線が沈黙。太田は、2回以降も踏ん張ったが、6回には暴投と落球などで2点を与えてしまう。試合は4−2で、松山商が勝利した。
太田は、米軍基地の街・三沢市に生まれ、ロシア人の母と日本人の父をもつハーフ。色白の美少年で、今でいう超イケメン選手であった。この大会では、準々決勝から決勝戦の再試合まで4日連投で、45回を1人で投げ抜いた。大会本部には、投げ続ける太田の姿をみて「これ以上戦わせるのは可哀想だ」といった声も届き、甲子園ギャルのはしりとして、太田を追いかける女性ファンも現れた。
この大会は、「本塁打の大会」といえるだろう。決勝戦まで、満塁弾、決勝弾、サヨナラ弾など数々のホームランが飛び出した。
21本もの本塁打が出たこの大会の締めくくりは、東洋大姫路の主将・安井浩二のサヨナラ本塁打。夏の甲子園史上初の決勝戦サヨナラ本塁打で、劇的な幕切れとなった。相手の東邦は、1試合ごとに力をつけ、1年生・坂本佳一が投げ抜いた。“バンビ坂本”と呼ばれた細腕投手は、「(サヨナラ本塁打を打たれて)なんとなくホッとした」と、味のあるコメントを残したのだった。
1980年(昭和55年)
――第62回大会決勝
早稲田実|100|210|000|4
横浜 |212|001|00×|6
初めて決勝に進んだ横浜と、55年ぶりに決勝進出した早稲田実業の神奈川・東京決戦となった。
試合は初回から点の取り合いに。1回表に早稲田実業が先制すると、その裏、横浜は1年生エース・荒木大輔を攻めて三塁打とボークで逆転。横浜は3回までに5点を奪い、試合を有利に進める。
早稲田実業の反撃も届かず。神奈川代表の優勝は、1971年(第53回)の桐蔭学園以来、9年ぶり5回目、東日本勢の全国制覇は4年ぶりだった。
1987年(昭和62年)
――第69回大会決勝
PL学園|110|200|001|5
常総学院|000|000|110|2
1985年、“KKコンビ”最後の夏に全国制覇を果たしたPL学園。卒業後も、1986年はセンバツに出場。そして、1987年には史上4校目の春夏連覇を達成した。
当時のメンバーがこれまたスゴい。立浪和義(元中日)を筆頭に、橋本清(元巨人ほか)、野村弘樹(元大洋)、片岡篤史(元日本ハムほか)、1つ下の学年には宮本慎也(元ヤクルト)がいた。
試合は序盤からPL学園が試合を有利に進める。先制、中押し、ダメ押しとなる得点を重ねて完勝。春は関東一、夏は常総学院と関東勢を撃破したことで、「PL学園最強説」を不動のものとした。