6月10日、楽天対広島の交流戦で実施された「ファミスタナイター」。この日の試合では球場ビジョンではゲーム映像を、試合中にはゲームのBGMが流れるという特別仕様でファンを喜ばせた。
当日の来場者には全10種類のオリジナルステッカーが配布されたほか、Tシャツや缶バッジなどオリジナルグッズも販売。球場隣接の特設バッティングセンターには、投手役でファミスタ仕様の則本昂大が登場した。
このファミスタナイター以外でも、先月からプロ野球12球団とパルコプロデュースショップ「ミツカルストア」のコラボグッズが発売。アイテムは「Tシャツ」「トートバック」「雑貨(マフラータオルや缶バッジなど)」の3種類。すでに「オリックス」「ソフトバンク」「巨人」以外の9球団は発売開始。残りの3球団も今月中には発売予定だ。
30年を経ても野球ファン、ゲームファンに愛され続ける名作「ファミスタ」。その背景も今一度おさらいしておきたい。
発売開始は1986年12月だが、選手のデータに関しては1985年の成績が基になっている。1985年といえば、阪神が日本一を達成した年とあって、阪神がモデルの「Tチーム」がやたらと強い。特に、「ばあす」「かけふ」「おかだ」のクリーンナップの破壊力はすさまじい。そのためか、この初代ファミスタは関西でバカ売れしたという。
ちなみに、1986年を経て87年から阪神の暗黒時代に突入するわけだが、チームが弱くなるのにあわせて、当然、初代以降のファミスタでは阪神選手のパラメータも低くなる。そんな状況に、開発チームには「関西で売れなくなるから、あまり弱くしないでくれ」と営業部からクレームが来た……なんて逸話も残っている。
30年前の初代ファミスタ。今となっては驚きなのが、そのデータ容量の小ささだ。スマホで撮影する写真1枚よりも小さいデータ容量で作られていた。
そのため、12球団のデータを揃えることは叶わず、プレーできたのは全10チーム。セ・リーグ6球団をモデルにした6チームと、食品系球団(日本ハム、ロッテ)が合わさった「フーズフーズ」、西武以外の鉄道系(南海、阪急、近鉄)が合わさった「レイルウェイズ」、そして「ナムコスターズ」の計10チームだった。
セ・リーグの偏重ぶりに、当時の「人気のセ」を垣間みることができる。その一方で、30年後に「レイルウェイズ」のモデル球団がすべてなくなっているとは、当時は誰も予想できなかっただろう。
データ容量の小ささ以上に驚かされるのは、初代ファミスタがたった4人の開発スタッフで製作された、ということ。中心になったのが当時のナムコ社員で、「ファミスタの父」といわれるプログラマーの岸本好弘さん(現・東京工科大学メディア学部准教授)だ。
岸本さんはプログラムを組むだけでなく、あの独特のドット絵のイラストも担当。また、当時、川崎球場で年間40試合はプロ野球を観戦していたという野球ファンでもあり、ゲームにおける選手の設定・データ監修も岸本さんが担っていたという。
そんな岸本さんが、この「ファミスタ」に込めたメッセージがある。ひとつは、「友だちや兄弟など、誰かと一緒に遊んでほしい」というもの。キャッチボールから始まる野球とも通じるものがある。そのため、コンピューター対戦の場合は相手(CPU)をあえて弱くして、「これじゃつまらない。誰かと遊ぼう」と思わせる工夫をしていたという。
そしてもうひとつが、「野球は球場で見るもの」という想いだ。ファミスタ独特の目線であり、後の野球ゲームに大きな影響を与えたことといえば、バックネット裏から見たゲーム画面になっていることが挙げられる。これは、当時、年間40試合を見ていた岸本さんの座っていた場所からの目線だという。岸本さんはこのバックネット裏からの野球を好み、ゲームを通じて「球場で野球を見る感覚」を味わってもらいたかった……そんな狙いがあったことを、過去のインタビューなどで語っている。
今回の「ファミスタナイター」。それは、開発者が30年前に願った夢がまさに結実した瞬間だったのかもしれない。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)