プロ野球選手の高校時代を振り返ると、松坂大輔(中日)や藤浪晋太郎(阪神)のように甲子園春夏連覇という輝かしい実績を誇る選手がいる一方、あと一歩で甲子園を逃した選手も多い。今回は甲子園にあと一歩で手が届かなかったプロ野球選手を紹介したい。
高知県内だけでなく全国区の名門校である明徳義塾高。高校野球ファンなら誰しもが知っている学校でもある。2010年以降、春夏どちらかの甲子園には出場している強豪校だ。もちろん多くのプロ野球選手も輩出している。
しかし、この明徳義塾高の出身ながら甲子園の舞台に手が届かなかったプロ野球選手がいる。伊藤光(DeNA)である。伊藤は2005年から2007年までの3年間を同校で過ごしているが、この期間に甲子園出場は1度もなかった。
2006年、2007年と2年連続で夏の高知大会で準優勝。決してチームが弱かったわけではない。とはいえ、3年連続で甲子園に縁がなかったのは、1993年から1995年まで遡る。すなわち12年ぶりのことだった。
全国屈指の強豪校であり、プロ野球選手を輩出するほどの年度であっても3年連続で甲子園に出場できないことがあるというひとつの事例だ。
パ・リーグの本塁打王争いで首位を快走する山川穂高(西武)も高校時代に甲子園へ手が届かなかった一人だ。
沖縄県の中部商高出身の山川は、3年時に夏の沖縄大会決勝まで進出。甲子園まであと一歩と迫ったが、興南高に行く手を阻まれた。この年の興南高は翌年に春夏連覇を達成することになる、2年生エースの島袋洋奨(ソフトバンク育成)が君臨。延長12回までもつれたが、最後は敗れている。
ちなみに興南高はこの夏の甲子園では1回戦敗退。相手は島袋とのちにチームメートとなる今宮健太(ソフトバンク)擁する明豊高だった。
2017年のセ・リーグ新人王・京田陽太。今シーズンは確固たるレギュラーというわけではないが、前半戦終了時点で打率.267、2本塁打、23打点とまずまずの数字を残している。
京田は日本大時代には戦国・東都大学リーグを主将として制覇した実績がある。しかし、青森山田高時代には甲子園の舞台に手が届かなかった。
京田が在学中の3年間(2010年〜2012年)は光星学院高(現八戸学院光星高)が、北條史也(阪神)、田村龍弘(ロッテ)の2人を擁し、黄金時代を迎えていたのである。1年からレギュラーを張った京田だが、夏の青森大会ではすべての年で光星学院高に敗れ甲子園出場を阻まれたのである。「あと一歩」がとてつもなく遠かった。
一方の光星学院高は2011年夏から2012年夏にかけて、3季連続で甲子園準優勝。ちなみに2012年は春夏ともに藤浪晋太郎(阪神)、森友哉(西武)らを擁する大阪桐蔭高に全国制覇を阻まれている。
野球の世界に限らず「たら、れば」は禁物だが、京田擁する青森山田高が一度でも光星学院高に勝利していれば、高校野球の歴史が大きく変わっていたかも知れない。
DeNAの次期大砲候補として期待されている細川成也。明秀学園日立高時代に通算63本塁打を放っているが、甲子園には縁がなかった。
夏の茨城大会において1年時は3回戦、2年時が準決勝で敗退。ようやく3年時に決勝へとたどり着いた。エースで4番の細川は常総学院高相手に8回1失点と好投を見せるも、打撃では4打数ノーヒットとブレーキ。0対1の僅差で敗れ、甲子園に手が届かなかったのである。
細川は甲子園の舞台に立つことはできなかったからこそ、4位という比較的下位でDeNAが指名することができたのかもしれない。
このように甲子園をあと一歩で逃したプロ野球選手は多くいる。地方大会にも目を向けてみると、楽しみ方が広がるはず。ぜひ、チェックしてみて欲しい。
文=勝田聡(かつた・さとし)