1964年、広島のスコアラーであった川本徳三と白石勝巳監督が考案した変則シフト。典型的なプルヒッターである王に対し、内外野をすべて一塁方向に寄せ、王に揺さぶりを掛けた。
この王シフトは当時最新鋭のコンピュータを使って生み出されたことでも知られている。デビューから5年間の王の打球方向をすべてを計算し、打ち取るに合理的なポジションに配置したのだ。
しかし、本当の狙いは打ち取ることではなかった。レフト方向をがら空きにすることで王に流し打ちをさせ、バッティングフォームを崩すのが真の目的だった。だが、王はそれを見抜き、いつも通りのフォームでいつも通りのバッティングに徹した。
「動じなかった王の勝利」と伝えられることが多いが、他球団と比べれば、広島も王を抑えこむことに成功している。
打者に語りかけ集中力を削ぐ戦術。もちろん名捕手・野村克也(元南海ほか)の作戦だ。ときには歓楽街に出向き、プライベートの情報を仕入れるなど、ささやきに並々ならぬ執念を燃やした野村だが、「王には通用しなかった」と完敗を認めている。
打席に入るまでは和やかに雑談に応じるが、いざ打席に入ると集中して動じない。よく遊び、よく打った王の「切り替え能力」は完璧だったという。
1963年の日本シリーズで西鉄の鉄腕・稲尾和久が見せた王対策投法。投手が足を上げるのと同時に足を上げる王の“タイミング”に着目し、足を上げた後、一度足を下げ、もう一度足を上げて投げる“2段モーション”で王を11打数1安打に封じ込んだ。
通算400勝の大投手・金田正一(元国鉄ほか)も王を攻略するためにさまざまな投法を考案。スローボールを投げたり、足を上げたまま静止したり、王との一戦に知略を駆使した。一本足打法になってから初めて王を攻略したのも金田と言われている。
多くの投手が王を翻弄しようと変則投法に挑むなか、その極みは小川健太郎(中日)の背面投げだろう。腕を後ろに大きく振り、そのまま腰の後ろから投球する幻術を公式戦で見せたのは小川が最初で最後だ。
史上唯一アンダースローで沢村賞を受賞した器用な男が苦手な王を抑えるために見せた執念。わずか数球のために毎日200球以上を投げ込んだという。
王が55本塁打の新記録を樹立した年、滅多打ちにあっていた阪神・藤本定義監督がやぶれかぶれになって考案した奇策。遊撃手の吉田義男をベース上に配置。王の打席中、吉田に腕をぶんぶん振らせて、王の目をくらませようとしたのだという。
“ムッシュ”こと吉田義男が語り続ける「すべらない話」。これが王対策の中で最も馬鹿馬鹿しいものに違いない……!
文=落合初春(おちあい・もとはる)