「高校野球100年」で注目される2015年は、「戦後70年」の節目の年でもある。それだけに、終戦の日である8月15日は、改めて「高校野球と戦争」の関係性について見直すいい機会ともいえる。
高校野球の全国大会の歴史を振り返ると、1941年夏から1945年まで、戦争の影響で大会が中止に追い込まれたことはよく話題になるエピソードだ(※1941年は地方大会のみ実施)。だが、1942年にも全国大会は開催されている。「幻の甲子園」と呼ばれる、ひと夏のエピソードに光を当ててみよう。
日中戦争は第二次世界大戦と名を変え、ますます戦況が激しくなってきた1942年、学生野球界には大変動が起きた。春のセンバツも夏の甲子園も文部省の指令で中止となり、代わりに「大日本学徒体育振興大会」なる競技会が甲子園球場で実施されたのだ。
主催は朝日新聞社ではなく、文部省とその外郭団体の大日本学徒体育振興会。それ故、この大会の記録は高校野球大会の歴史には記載されていない。
ユニフォームからローマ字が消えて校名が漢字表記に強制されるなど、次第に戦時色が強くなっていた時勢になぜこのような大会を行ったのか? 目的は「戦意高揚」だった。
そんな状況だったが、野球・甲子園の人気は相変わらず高く、連日満員の観衆が駆けつけた。雨の影響で準決勝と決勝戦を1日で強行する悪条件のなか、優勝したのは徳島商。しかしながら、優勝旗はなく、文部省からの表彰状が1枚渡されただけだったという。
その後は戦況の悪化とともに野球は“敵性スポーツ”とみなされ、選手たちは自然と野球から離れていった。そして戦地へと飛ばされ、多くの野球選手が帰らぬ人となってしまった。
徳島商に手渡された優勝を証明する賞状も、1945年7月の徳島大空襲によって焼失。徳島商ナインを讃えるものがなくなってしまった。そこで1977年、徳島県を訪れた当時文部大臣だった海部俊樹氏に、「幻の大会」で指揮を執っていた稲原幸雄氏が「1942年夏の優勝を記念するものがほしい」と嘆願したことで、賞状と盾があらためて同校に授与された。
その後、優勝メンバー有志によって「徳島の高校野球史上及び甲子園球場史に残らないまぼろしの全国優勝」と刻まれた記念碑が、2012年徳島商正門脇に建てられた。