90年代から00年代にかけて球界を盛り上げ、ファンから愛されたレジェンドたちが次々と引退を表明している。ここでは球界を担った彼らの若手時代、ターニングポイントを振り返る。前回のセ・リーグ投手編に引き続き、今回はパ・リーグ投手編。
≪1991年ドラフト1位 東北福祉大≫
メジャー通算84セーブ。「オールドルーキー」としてアメリカンドリームをつかんだ斎藤だが、若手の時代から活躍していた。
同時期に入団した谷繁元信(現中日監督)と同じく、斎藤もチームの変革期のチャンスをつかんだ。2年目の1993年、球団名が大洋から横浜に変わり、近藤昭仁監督とフロントによる血の入れ替えが始まると、斎藤は1軍で重用され、29試合で8勝10敗、防御率3.81の成績を残す。
その後も突出した成績こそないものの、チーム方針の後押しもあって先発ローテーションに残って経験を積むことができた。特に1996年は大矢明彦監督が就任し、斎藤を粘り強く重用。最多奪三振のタイトルを獲得した。
チームの変革期において、次世代のエースであり続けた実力と運。その後もチームが暗黒期に入ると、クローザーを任され、守護神としての経験を積むなど、結果的に横浜のチーム事情がことごとく斎藤のキャリアを後押しすることになった。
大学時代に投手を始めたきっかけも、「監督がたまたま遊びの投球を見ていた」からと語る斎藤。これからの人生でも強運を発揮しそうだ。
≪1994年ドラフト3位 立正大≫
2度のノーヒットノーラン未遂、1度の完全試合未遂で記憶に残る西口もまた、山本昌と同じく米国留学でチャンスをつかんだ。
1年目の1995年から米独立リーグのスーシティへと派遣された西口。潜在能力は認められていたが、球団の方針で1年目はアメリカで過ごすはずだった。
しかし、西口はアメリカでチェンジアップを習得。山本昌がスクリューを覚えて覚醒したように、西口も決め球を得て頭角を示し、後半戦から日本に呼び戻された。
ターニングポイントは帰国後の初戦である2軍ロッテ戦。西口は8回無死満塁のピンチを三者連続三振で切り抜けると、何事もなかったかのようにベンチで飄々と汗を拭いた。
その姿を見ていた片平晋作2軍監督は「こいつは大物だ」と1軍に報告。西口は1軍に呼ばれ、9試合で防御率1.99をマークした。
飄々とした表情や静かさは西口の生まれ持った性格であるが、これがうまくハマった。度胸があったのか、天然なのか、いきなり「大物感」を漂わせることに成功した西口は、その後、西武一筋21年の現役生活を歩むこととなる。
≪1996年ドラフト1位 明野高≫
無類のタフネスさで楽天のセットアッパーを担ったこともある小山。1996年に中日に入団したものの、若手時代は「2軍の帝王」だった。
ウエスタンリーグでは最多勝、最優秀救援投手など、数多くのタイトルを獲得していたが、1軍に上がるとイマイチな成績に…。1軍デビューを果たした1999年からの1軍防御率を列挙すると、4.26、5.58、4.76、4.81、9.35、9.30とまさに崖っぷちだった。
プロ9年目にさしかかる小山の人生を変えたのが、新生球団・楽天の誕生だった。初年度から戦力不足に悩む楽天に数球団が無償トレードで戦力を提供。そこに小山も名を連ねた。
球団創成期から小山はリリーフでフル稼働。移籍当初はお世辞にもいい成績とはいえなかったが、投手陣のまとめ役を買って出るなど、チームを牽引する存在に。2007年にストッパーの福盛和男がケガで離脱すると、守護神に任命され、30試合で16セーブ、防御率0.58の結果を残して、小山のサクセスストーリーはようやく始まった。
「毎日全力で投げた」と語ったプロ19年。全力の下積み時代が実を結んだ典型といえるだろう。
≪2002年ドラフト自由獲得枠 亜細亜大≫
今季、これまでに引退を表明している選手の中で、唯一新人王を獲得している木佐貫。2003年のルーキーイヤーは25試合に先発し、10勝7敗、防御率3.34の好成績を挙げている。
その後は不調・ケガに苦しみ、次に2ケタ勝利を挙げるのは2007年のことだった。その潜伏期間を考えても、1年目の活躍がなければ、ここまで球界に残ることはできなかったかも知れない。
木佐貫は新人王を獲ったことで天狗にならず、いつでも謙虚に真面目に練習に取り組んでいたという。まばゆい活躍に目を眩ませず、コツコツと自分を磨いた若手時代。来季から巨人のスタッフとして活動するという噂もあり、これからの野球人生でも後進に伝えられることは多いだろう。
文=落合初春(おちあい・もとはる)