2014年、開場90周年というメモリアルイヤーだった阪神甲子園球場。その甲子園において、かつてシンボルと称されたのが「ラッキーゾーン」だ。1947年に設置されてから1991年に撤去されるまで、数々のドラマを演出した“舞台装置”を今こそ振り返ってみよう。
ラッキーゾーンが作られた理由としてよく挙げられるものに「ベーブ・ルース説」がある。1934年の日米野球で来日したベーブ・ルースが甲子園を見て「この球場は大きすぎる」と言ったから、とするものだ。
確かに、当時の甲子園は両翼110メートル、中堅119メートル、左右中間は128メートルと今以上にフィールドは広かった。ただ、日米野球から2年後の1936年にバックスクリーンの増設などで若干フィールドは狭くはなったものの、肝心のラッキーゾーンが設けられたのは日米野球から13年後の1947年のこと。よって、ベーブ・ルースの発言を理由にするのは少し無理がある。
ラッキーゾーン設置の一番の理由は外野からの影響ではなく、身内からの要望だった。1947年、当時阪神のプレーイングマネージャーだった若林忠志がファンサービスの狙いから考案したアイデアだった。当時はボールの材質も悪く、打球が飛ばない時代。ラッキーゾーンの導入によって、本塁打数を増やし、ファンに喜んでもらおう、と考えたのだ。
もっとも、ラッキーゾーンのお披露目となった1947年5月26日の阪神対南海では、狭くなった球場を見て「これなら本塁打が打てそうだ」と大振りする選手が続出。結果的に、この試合で先発した若林が1−0で完封勝利をおさめる、という皮肉な結果になっている。
スタートではつまずいたものの、ラッキーゾーンの導入によって阪神の攻撃力が増したのは間違いない。藤村富美男、別当薫、土井垣武のクリーンナップを軸にした攻撃陣は「ダイナマイト打線」と呼ばれ、1949年には137試合で141本塁打とまさに打棒が爆発した。ただし、ラッキーゾーンを導入した1947年こそリーグ優勝を果たしているが、その後、本塁打数の増加と反比例するようにチームの順位は1948年:3位→1949年:6位と右肩下がりに。うまく順位に結びつけることはできなかった。
ラッキーゾーンが撤去されたのは、1991年12月5日のこと。その後、甲子園球場で最初の公式戦となったのが翌1992年のセンバツだった。プロよりも高校生こそラッキーゾーン撤去の影響が如実に出るだろう、という予想通り、この大会での本塁打数は前回大会の半数以下に激減。
そんな中、大会初日に登場して2打席連続本塁打を放ち、2回戦では2試合連続本塁打を放った人物こそ星稜の松井秀喜だった。ラッキーゾーンの撤去が「怪物」のスゴさをより明確にしたのは間違いない。