どうみても不格好な打席での構え方。里崎智也の事を振り返ると、よくこんな構えで打てるなぁ……と、感心したことを覚えている。
通算成績は、1089試合に出場して890安打、108本塁打、458打点、打率.256。これといって、特筆すべき数字は残していない。里崎は打撃でも守備でも、超一流のスキルやテクニックを持っていた選手ではないと受け止めている。しかし、それらをカバーする周囲を巻き込む強気な発言や強靱なメンタルこそ、里崎の語り継ぐべき“武器”であったと思うのだ。
1976年5月20日、徳島県で生まれた里崎は鳴門工高から帝京大を経て、1998年ドラフト2位でロッテに入団。プロ野球史に残る、あの18連敗の悪夢を経験した翌年のことだ。2001年、若手選手の登竜門とされるフレッシュオールスターではMVPに選出され、2002年から同じ年の橋本将との正捕手争いがスタート。ヒーローインタビューで祖母について語り、涙したのは2003年のことである。
転機となったのは、2005年のシーズンだろう。捕手としては前述した橋本との併用が続いたものの、前年から監督に就任したボビー・バレンタインにその打撃力を買われ、4番打者に抜擢されたこともあった。そしてこの年、レギュラーシーズン2位ながらプレーオフを制したロッテは、日本シリーズに出場。阪神をスイープ(4連勝)する圧倒的な強さで、31年ぶりの日本一に輝いた。
そして2006年、里崎の名前は世界に知れ渡る。第1回WBCでは日本代表に選抜され、正捕手として世界一のタイトルと同時に、ベストナインも獲得。打っては打率.409、守っては8試合中7試合で先発マスクをかぶり、チーム防御率2.49を演出。緊張感高まる国際試合でもお構いなしの、強靱なメンタルで投手陣を引っ張った。
この年のシーズンでは、自身初となるファン投票でのオールスター出場を果たし、ゴールデングラブ賞とベストナインにも選出。ロッテの捕手としては21年ぶりに規定打席に到達するなど、レギュラーの座を勝ち取った。
翌2007年には、北京五輪出場を懸けたアジア予選にも出場した里崎。しかし、休むことなく走り続けた代償として、右ヒジ痛を発症。このあたりから、ケガとの戦いを余儀なくされる。2008年はケガに悩まされ、橋本に出場機会を奪われるケースが多くなり、規定打席到達はならなかった。
里崎が再び輝きを取り戻したのは2010年。シーズン大詰め、ロッテは1つでも負けたら4位に転落し、CS(クライマックスシリーズ)出場を逃すというギリギリの状況で、見事、3連勝してCS出場を果たした。この時の里崎の一言が、後に歴史に刻まれることになる。
「史上最大の下克上を見せる!」
と発言した大天使に導かれるように、ロッテは周囲の“KY(空気を読まない)批判”をパワーに変えながら、快進撃をみせる。このシーズン、わずか78試合の出場に留まった里崎は、ポストシーズンで無類の勝負強さを発揮。
西武とのファーストステージ第1戦では4点ビハインドから追いつくタイムリーヒットを放ち、第2戦は土壇場の9回に同点ソロ。続くソフトバンクとのファイナルステージは、第2戦、第3戦を落として王手をかけられたものの、ここから奇跡の3連勝。シーズン3位チームが日本シリーズに進出する史上初の快挙を達成した。そして、前評判では「地味な日本シリーズ」と言われながらも、熱戦・激戦の連続で大いに盛り上がり、中日を倒して5年ぶりに日本一の座を奪還。里崎の強気な宣言から約1カ月をかけて、「史上最大の下克上」はここに完結した。
改めて思う。里崎がプロ野球界で成功したことが、「最大の下克上」ではなかったか、と。高校時代は甲子園に出場できず、帝京大に進学と、決してエリート街道を進んできたわけではない。コツコツと自分を磨いてきたことに加え、いつも変わらない強気な姿勢と勝ち気な考え方を貫くことで、自らの実力以上のものを発揮することができたのではないだろうか。ポイントポイントでの勝負強さは別格だ。