3月21日の開幕に先立ち、今週14日には、組み合わせ抽選会が行われる第86回選抜高等学校野球大会。その“センバツ”には、あの学校が帰ってきます。あの学校とは、1987(昭和62)年の第59回大会以来、実に27年ぶりの出場となる徳島県立池田高校のことであります。
“センバツ”の歴史を紐解き、味わい深いエピソードの数々を紹介するこのコーナー。第2回目はその池田高校にクローズアップして「深いい話」を紹介しましょう。
池田高校野球部を語るとき、まずは2001(平成13)年に77歳で亡くなった蔦文也元監督を語らなければならないだろう。その強烈なキャラクターは高校野球ファンのみならず、世間一般にも強い印象を残した。「攻めダルマ」といわれた名将に導かれて、池田高校は春夏あわせて3度の甲子園優勝をはじめとする、素晴らしい成績をおさめている。
その人生は波瀾万丈だった。戦前は徳島商業高校、同志社大学のエースとして活躍した蔦は、学徒出陣で特攻隊員になる。いつ死ぬかわからない、そんな不安を紛らわすために酒を覚え、戦時下を過ごした。もし戦争が長引いていれば、蔦の人生、池田高校野球部、高校野球の歴史も今とは変わっていただろう。
何とか生きながらえて戦後を迎えた蔦は、社会人野球を経て東急フライヤーズ(現日本ハム)に入団。しかし1年でクビになり、池田高校の社会科教諭となる。1952(昭和27)年に野球部の監督に就任。いまでは名監督と呼ばれる蔦だが、1971(昭和46)年夏に初出場を果たすまで20年間、甲子園の土を踏むことはなかった。
そして、1974(昭和49)年春、部員わずか11人の“さわやかイレブン”でセンバツ準優勝。以降、1982(昭和57)年夏、1983(昭和58)年春の夏春連続優勝、1986(昭和61)年春も優勝と高校野球の頂点を極め、歴史に名を残す名将となったのだ。
「ワシから酒を取ったら何も残らん」というつぶやきも有名で、酒が大好きだった蔦。池田町界隈では、泥酔した蔦の姿がよく見かけられたというほどだった。しかし、実は臆病だった本人の性格を隠すために飲み続けていた、という話もある。
そんな蔦監督をバックアップしたのが、池田高校野球部歴代の部長たちだ。1972(昭和47)年から部長に就任した白川進は13年間、蔦監督と野球部を支えてきた。就任時期はまさに天国と地獄を行ったり来たり。甲子園常連校になりつつも、1983(昭和58)年には部員を含む生徒の飲酒運転で、国体や選抜出場も辞退するという苦しみも経験した。
白川の後任の高橋由彦もまた、野球部に大きな影響を与えた人物のひとりだ。1986(昭和61)年から部長に就任し、蔦監督と選手を支え続けた。自らが大学時代にレスリング部に所属しており、豊富なトレーニング知識を活かして練習に取り入れたという。
当時としては珍しいウエートトレーニングを導入し、ウエート器具を使って選手たちをパワーアップさせた。池田打線が早くから金属バットに対応できたのは、ウエートトレーニングのたまものだったのだ。そういう意味では、高橋は伝説の“山びこ打線”の産みの親ともいえるかも知れない。
最後に忘れてはいけないのが、野球部を支えるファンの存在だ。現在でも人気は高く、練習試合には多くのファンがネット裏に集まるという。そのファンたちは一様に熱心で、心から池田高校野球部を愛しているのだ。前述した“さわやかイレブン”時代から15年以上に渡って毎日、練習を見学にくるファンもいたそうだ。
そのファンとともに野球部を支えるのが後援会。資金面の工面はもちろん、地元の解体工事会社社長が、学校から徒歩2分にある建物を買い取って野球部の寮施設として提供。また風呂も格安で年間契約した、近所の銭湯を利用している。さらに部員たちの食事面では、その寮の近くにある阿波池田駅前商店街の食堂が、昼の弁当と夕食を用意してくれているという。
センバツ出場決定の報告を受けた岡田康志監督は「地域ぐるみで野球部を応援してくれている。そういった方々の思いが、(センバツ出場という)形になったんだと思います」とコメント。
1992(平成4)年の夏以来、22年ぶりに甲子園に姿を見せる「IKEDA」の胸マーク。高校野球を愛するファンにとって、強いか弱いかということ以上に、池田高校野球部の出場、あのユニフォームが帰ってくることに、感慨深いものがあるはずだ。
ちなみに蔦監督の残した「山あいの町の子供たちに、一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」というセリフは、池田高校の校門横の石碑に、今も刻まれている。
(参考文献/高校野球の真実・別冊宝島98)
■ライター・プロフィール
鈴木雷人(すずき・らいと)/会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。“ファン目線を大切に”をモットーに、プロアマ問わず野球を追いかけている。Twitterは@suzukiwrite