初めて取材をしたのは梅津晃大(中日)が東洋大の4年になる直前の時期だった。それまでのリーグ戦ではほとんど登板機会がなかったため「ケガをしていたのですか、それとも実力的な部分ですか?」と訊くと、少し考えてから「力がなくて、ですね」と力なく答えてくれた。何となく引っかかってはいたが、取材時間の関係もありそのまま次への質問へと移った。
それからしばらくして、再び取材ができる機会に恵まれたので詳しく聞いてみると、1年夏以降、一時的にピッチングができなくなってしまったという。
「先発した交流戦当日のブルペンからおかしかったんです。前日まで普通に投げていたのに、神宮に行ってブルペンに入った瞬間、キャッチボールができなくて。周りもびっくりしてましたけど、自分もあの試合は泣きたかったです。バックネットに当てたり、ピッチャーゴロの送球も不安定で。だからあの試合はけっこう黒歴史です。あの試合から2年生の最後までキャッチボールができなくて。やばかったですよ、あの時は」
それでも根気強く練習に取り組み、一進一退を繰り返しながら2年冬頃には調子を取り戻し始めた。だが毎日のようにボールを投げていたのに、突然何の前触れもなく“当たり前”だったピッチングができなくなるという、そんな事実は想像を絶するほどの辛さだったはずだ。
「野球部をやめないことだけをモチベーションに頑張っていた」という苦しみに満ちた1年数カ月の話を聞いた後、思わず「よく頑張ってきましたね」と言っていた。すると梅津は大きく笑い、「そうなんですよ。だから今投げられて、プロ注目って言われていることが、自分が1年生の時の4年生の人たちには多分想像つかないんじゃないかなと思います」と言った。
自らがいいように言われた時、基本的に謙遜する梅津が、こちらの言葉をそのままに受け取ってくれた。その裏には、梅津自身が強い覚悟を持って努力を重ねてきた自負がうかがえた。
自分のピッチングは取り戻したが、今度は相次いでケガに見舞われた。3年秋のリーグ戦では快投を続けながらも、足を負傷。投げ終わると同時にそのまま膝をつき、自ら立つことができずに背負われてベンチ裏へと下がった。元々痛めていた箇所が肉離れを起こしたのだが、そのシーズンに梅津がマウンドへ戻ってくることはなかった。
ケガは癒えたものの、大学初勝利を挙げられないまま迎えた4年春の開幕カード。2戦目に先発した梅津は7回1失点(自責0)ながら敗戦投手に。そしてその後のオープン戦で打球を足に受け、戦線離脱。だが東洋大が優勝して迎えた大学選手権の初戦に救援登板。仲間たちが「梅津を選手権で投げさせてやろう!」と用意した舞台だった。
ラストシーズンもなかなか白星には恵まれなかった。だがこのシーズン6戦目にして、ようやく大学初勝利を挙げた。この1勝に、梅津本人よりもチームメートが大喜び。いかに梅津に人望があるのかが、あらためてうかがい知れた光景だった。
取材を通じて抱いた梅津の性格は真面目な好青年という印象。インタビューをすれば随所に感謝の気持ちをさらっと表し、家族の話をするときは「父」「母」「兄」と必ず謙譲語で話す。
ドラフト前にはスケールの大きさが高く評価され、同時に伸びしろがあるという表現もなされていた。これには「伸びしろって言われると、努力不足って思わないですか? もっと鍛えれば伸びるって。今やってないってことに聞こえません? やってるんですけど…」とトーンを落とした。もっと大きく構えてもいいのに、と勝手に思ったこともあるが、これも彼の大きな武器だろう。
高校時代にもドラフト候補として挙げられていたが「デカいだけじゃんって(笑)。勝手に持ち上げられてたんですよ」と謙虚に受け止めていた。それでも持ち上げられたら調子に乗ってしまう人がいても不思議ではない。だが梅津は「中学時代の恩師のおかげです。人間性から教えてもらいましたから」と当たり前のように答えてくれた。
梅津の取材では苦しい時期の話が多かったように思う。だからこそ、プロの世界で登板機会を与えられ、4勝も挙げたことが本当に嬉しい。大学時代、あれほど遠かった1勝を初登板で手にした喜びはひとしおだっただろう。
大学同期の甲斐野央(ソフトバンク)や上茶谷大河(DeNA)との比較はナンセンス。お互いが意識し、高め合う存在であったとしても、優劣をつけるような比較対象ではないのだから。
文=山田沙希子(やまだ・さきこ)