4月28日から30日の試合でオリックスが着用するのは、1978年から1996年までの近鉄のユニフォームだ。赤、紺、白のトリコロールカラーの帽子が個性的で、近鉄といえばこのユニフォームだという人も多いであろう。
近鉄は1974年から西本幸雄を監督に迎え、低迷していたチームの底上げを図った。1979年には前期に優勝し(当時のパ・リーグは2シーズン制)、後期優勝した阪急ブレーブスとプレーオフを戦った。プレーオフで近鉄は3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を果たした。
翌1980年は前期が2位、後期が優勝。ロッテオリオンズとのプレーオフでも3連勝し、パ・リーグ2連覇を果たす。日本シリーズの対戦相手は1979年、1980年とも広島東洋カープで、いずれも3勝4敗で敗れ、日本一の座を手に入れることができなかった。
このときに活躍したのが、「赤鬼」と呼ばれ恐れられたチャーリー・マニエルだ。マニエルといえば、顔面に死球を受けてアゴを骨折したものの、予想よりも数段早く復帰し、アメフトのフェースガードを取り付けたヘルメットをかぶって打席に立ったのが印象的だ。マニエルは、1979年に本塁打王を獲得し、MVPに選出。1980年には本塁打と打点の二冠王に輝いている。
マニエルは後にメジャーリーグでコーチや監督を務め、2008年にはフィリーズの監督としてワールドシリーズを制覇。そのときのチームには田口壮(現オリックス2軍監督)が選手として在籍していた。
オリックスが近鉄となる4月28日から30日の試合で対戦相手となるソフトバンクは1980年当時の南海ホークスのユニフォームで戦う。南海のユニフォームとしては珍しい縦縞のデザインだ。
1980年の南海は前期5位、後期6位、通年6位と低迷したためか、このユニフォームは1年限りで姿を消すこととなった。
この1980年は香川伸行が入団した年だ。浪商(現・大体大浪商)のキャッチャーとして甲子園で活躍した香川は、太った体型から「ドカベン」と呼ばれる人気選手だった。プロに入ってからもその体型を維持し、多くのファンから愛されるキャラクターだった。打てない、活躍できないときは真っ先に野次られることもあったが、それも人気がある証拠だろう。
5月5日から7日の日本ハム戦で、オリックスは1980年から1983年の阪急ブレーブスのユニフォームを着用する。
このユニフォームは、それまでの黒のアンダーシャツを赤に変更。また、プルオーバー式からボタン式に変更されている。
その背景は、投手は毎回アンダーシャツを着替えるので、プルオーバーだと非常に面倒くさい。だからボタンに変えた、と『KANSAI CLASSIC 2017』プレイベントのトークショーで、山田久志氏(元阪急)が明かしていた。
1975年から1977年にかけて3年連続日本一を達成したように、この時代の阪急は強いイメージだが、1980年は10年ぶりのBクラスに終わっている。1981年に上田利治監督が復帰したものの、1981年が通年2位、1982年が通年4位、1983年が通年2位。「そこそこ強いが優勝には届かない」という成績だった。
1980年といえば、松坂大輔(ソフトバンク)の生まれた年。今年、誕生日を迎えると37歳になる。松坂世代の現役選手には、和田毅(ソフトバンク)、小谷野栄一(オリックス)らがいる。自分が生まれた年のユニフォームを着てプレーするというのは、どんな気持ちなのだろうか?
そして、現在のユニフォームもまた、未来のクラシックイベントで着用されるのだろう。そのとき、未来の野球ファンが「あんな選手がいた、こんな出来事があった、見たかったな」とワクワクするようなプレーで、プロ野球の歴史を繋いでいってほしい。
文=矢上豊(やがみ・ゆたか)
関西在住の山本昌世代。初めてのプロ野球観戦は、今はなき大阪球場での南海対阪急戦と、生粋の関西パ・リーグ党。以来、阪急、オリックス一筋の熱狂的ファン。プロ野球のみならず、関西の大学、社会人などのアマチュア野球も年間を通じて観戦中。