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高校野球を見つめてきた、甲子園名物「銀傘」誕生物語

 夏の日射しの下、熱戦を繰り広げる高校球児たち。熱中症にも気をつけてほしいが、日頃から鍛えている選手よりも観客の方が熱中症になってしまう例は多い。それだけに、甲子園の内野スタンドを覆う「銀傘(※当時は鉄傘)」のありがたみを感じている人も少なくないはずだ。観客席を覆うこの銀傘、いま使われているものは、なんと4代目にあたるという。甲子園球場の象徴の1つともいうべき銀傘はどのような運命を辿り、今日に受け継がれてきたのだろうか?


もともとはラグビー観戦用だった!?


 甲子園球場の象徴といえば? こう聞かれたとき、ツタや黒土、浜風、バックスクリーンといった答えとともに「銀傘」を挙げる人も相当数いるだろう。内野スタンドをすっぽり覆う銀傘は、1924年の開場当時は鉄製だったため「鉄傘」と呼ばれていた。

 甲子園球場は野球のために作られたスタジアムではあるものの、開場当初からラグビーなど他の競技も開催することを念頭に置かれていた。そのため、「雨中でも試合を行うラグビーを観戦できるように」というのが元々の設置目的だったといわれている。

 このように「雨よけ」として設置された鉄傘だったが、完成すると当初の目的とは違う用途として好評を博した。それは、夏に開催される「全国中等学校野球大会」を日陰で見ることができる、というもの。特に日焼けを嫌う女性から好評で、女性の野球ファン開拓、という副産物をもたらしたのだ。

戦争と鉄傘


 甲子園球場のシンボルとなった鉄傘も、戦争が始まると軍部の標的にされた。軍艦などの製造のために国民総出で鉄を供出した時代、海軍からは「一刻も早く供出せよ」と矢のような催促を受けたという。

 1943年8月18日、プロ野球・阪神対名古屋(現中日)の試合中に「カーン、カーン」というカン高い槌音を響かせながら撤去作業が行われた。こうして、甲子園名物の鉄傘は姿を消した。鉄傘の買い主は神戸製鋼。1トンあたりの売値は90円(当時)で、全体では9万円だった。しかし、供出された鉄傘は、その後放置されたままで、結局軍事利用されることはなかった。

「銀傘」としての復活


 戦争も終わり、甲子園に学生野球が戻ってから4年後の1951年、甲子園球場に大きな屋根が戻ってきた。アルミニウム合金の一種であるジュラルミン製の屋根に阪神電鉄が投じた金額は8300万円(当時)。これまでの鉄傘とは違った光沢から、「銀傘」と命名された。ある試合で計測したところ、内外野のスタンドでは40度近くの猛暑でも、屋根の下では31度。銀傘はしっかりと太陽光を跳ね返していた。

 その後、1982年にはアルミ合金製の「3代目銀傘」が誕生。現在の「4代目銀傘」に切り替わったのは2009年で、素材もガルバリウム鋼板製に変更されている。

 これからも銀傘は、伝説の試合を目撃する観客を雨と日射しから守り、甲子園名物として後世に受け継がれていくはずだ。

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