いよいよMLBデビューが迫ったニューヨーク・ヤンキースの田中将大。メジャーでの活躍を占うため、そして7年総額1億5500万ドルという大型契約が生まれた背景を知るためにも、今一度これまでの野球人生を振り返ってみたい。第1回は少年時代から高校時代まで──。
ひみつ1:野球の原点は「4番キャッチャー田中」
田中将大が野球を始めたのは小学校1年生のとき。当時住んでいた兵庫県伊丹市にある昆陽里(こやのさと)タイガースの練習を見学していたところ「打ってみるか」と誘われ、バットを持ったのがキッカケだった。このとき、全くの素人にもかかわらず見事なミートを見せ、周囲を驚かせた田中。昆陽里タイガースの山崎三孝監督が「こういうのが持って生まれたセンスか、と思いましたね」と語るほど、非凡な才能をいきなり発揮したのだ。
このように、まずは「打撃センス」を買われた田中は、学年で区切られた各段階のチームで4番に座り続け、小学6年間はキャッチャー一筋。このとき、同じチームで投手を務めたのが、後に巨人で活躍し、侍ジャパンではチームメイトとなる坂本勇人である。
ひみつ2:恩師は「イチローの恋人」
中学に入ると、地元の宝塚ボーイズに入団。「宝塚ボーイズに入っていなかったら、今の自分はない」と後に田中自身が語るほど、ここでの経験が大きな財産になったという。その理由が恩師・奥村幸治監督の存在だ。
奥村氏は、プロを目指しながらオリックス、阪神、西武で打撃投手を務めた人物。特にオリックス時代、イチローが210安打を達成したときに専属打撃投手を務めていたことから「イチローの恋人」としてマスコミに紹介された経歴を持っていた。
そんな「一流」と間近で接してきた奥村氏から教わったことが、技術以上に「意識の持ち方」や「状況判断」といった頭を活用すること。この頃から投手を始めた田中は、ただ単に投げるのではなく、「バッターが何を狙っているのか、動きだけじゃなく雰囲気を感じろ」とよく指摘されていたという。
ひみつ3:伝家の宝刀・スライダーは中2の秋から
投手・田中将大が生まれたのは中学1年の秋。「肩の強さと肩周りが良かった」ということと「キャッチャーとしては動きに俊敏さが足りない」という理由からだった。転向後、すぐに投手としての適性を発揮。力のあるストレートはコントロールも良く、変化球を教えるとすぐにキレのいい、縦のカーブをマスターしたという。だが、投手・田中の向上心はとどまることを知らない。
「金属バットは当たるとヒットにされる可能性があるので、空振りが取れるボールが欲しかった」と、中2の秋から取り組み始めたのが、後に「消える」とも称された伝家の宝刀・スライダーである。
ひみつ4:マエケンを眺めるだけだった無名時代
宝塚ボーイズでは捕手兼投手としてチームの中心人物だった田中。しかし、地区大会ではいつも決勝で敗れ、全国への出場は叶わなかった。当時、関西のボーイズリーグで注目を集めたいたのが、前田健太(広島)や橋本良平(元阪神)。この2人が出場した全国大会で、試合運営の補助員(ボールボーイ)をしていたのが田中だった。彼らの勇姿を間近で見ながらも、「自分も選ばれたら絶対にやれた!」という自信を持ち続け、日々のトレーニングに励んでいたという。
また、2004年秋のドラフトで「史上最年少指名」として話題を集めた辻本賢人(元阪神)とは、宝塚ボーイズ時代、数カ月という短い期間だがチームメイトだったこともある。後にプロ入りするような強烈なライバルたちに囲まれ、切磋琢磨し続けたことが、「怪物・田中将大」を生むキッカケにもなったのだ。
ひみつ5:絶不調だった高3夏に見せた「エースの神髄」
高校は、北海道の駒大苫小牧高へ進学。1年時からベンチ入りを果たすと、2年夏(2005年)の甲子園では主戦投手の1人として史上6校目の大会2連覇に貢献。この年は秋の国体、そして神宮大会でも優勝を果たし、変則的な「高校三冠」を達成。名実ともに、高校No.1投手と呼ばれるようになった。
だが、そのことが高校3年での「落とし穴」を生んでしまう。結果が出ていたにもかかわらず「もっと速い球を投げよう」と意識するあまり、フォームを崩してしまったのだ。
2006年、最後の夏の甲子園では、斎藤佑樹を擁する早稲田実業との決勝戦。引き分け再試合の末に敗れ、大会3連覇を逃してしまったのはご存じの通り。だが、大会直前の発熱と腸炎による下痢に苦しみ、体調面でも絶不調だった中でチームを準優勝に導いたことは、「苦しいときでも試合は作る」というエースの神髄が、すでにこの時から身についていた証でもあるだろう。