■村上雅則(南海→ジャイアンツ)
メジャーでの実働期間:2年(1964〜1965年)
54試合:5勝1敗/9セーブ/防御率3.43
「マッシー村上」こと村上雅則は、日本人として初めて世界最高峰のマウンドに上がった日本人メジャーリーガーの元祖。
1964年に野球留学で、ジャイアンツの春季キャンプに参加したことがすべての始まりで、3カ月で帰る予定だったのだが、シーズンが始まっても南海から帰国指令がなかった。
そのためジャイアンツ傘下のシングルA・フレズノで投げ続けていたところ、夏の終わりにダブルA、トリプルAを飛び越えてメジャー昇格。9試合に登板し、1勝(0敗)1セーブを挙げる快挙を達成した。
翌1965年はシーズン前に南海が球団に復帰させようとするも、契約問題で揉めてもう1年ジャイアンツでプレーすることに。すると45試合に登板して、またもや4勝(1敗)8セーブの好成績を挙げる。
村上自身はそのままメジャーでプレーしたかったようだが、家族や球団の説得もあり断念。今となっては帰国したことがもったいなく感じる。
■柏田貴史(巨人→メッツ)
メジャーでの実働企画:1年(1997年)
35試合:3勝1敗/防御率4.31
八代工から、1989年にドラフト外で巨人に入団した柏田貴史。2軍で最多勝の結果を残すものの、1軍での出場機会に恵まれず、不遇の日々を過ごしていた。
そんななか、1997年にメッツへ野球留学した際に、なんと5月にメジャーデビュー。その1年だけでNPB時代の1勝を超える3勝を挙げる。
同年のオフに、メッツを含むメジャー3球団と巨人以外のプロ野球11球団からオファーを受けるも、プロ野球選手へ道を拓いてくれた巨人に復帰。
「さすがメジャー帰り!」といった大きな印象に残る結果を出したわけではないが、メジャー時代に引き続き、中継ぎ投手として普通に活躍した。巨人復帰後の7年で3勝(NPB通算4勝)は、メッツで稼いだ勝利数と同じ。勝ち運にも恵まれ、よほどメジャーの水が合っていたようだ。
■石井一久(ヤクルト→ドジャース→メッツ)
メジャーでの実働期間:4年(2002〜2005年)
105試合:39勝34敗/防御率4.44
菊池の師匠である石井一久は、2002年1月にポスティングシステムで入札したドジャースと契約し、晴れてメジャーリーガーとなった。春季キャンプではピリッしなかったものの、メジャーデビューとなったロッキーズ戦で6回2安打の快投を披露し、初登板で初勝利をゲット。
その後も前半戦で11勝を挙げたり、自己最速となる156キロのストレートを投げたりと順風満帆なシーズンを送っていた。しかし、シーズン終盤のアストロズ戦で頭部に打球が当たり、頭蓋骨を亀裂骨折。プロ野球人生はおろか、人生が終わるかもしれない大ケガとなった。
ドン底とも思える状況から復帰した石井は、2003年以降もケガと戦いながら9勝(7敗)、13勝(8敗)と活躍。2005年は開幕前にトレードでメッツに移籍するも、故障に悩まされ3勝(9敗)止まりだったこともあり、この年を最後にメジャーに別れを告げ、ヤクルトに復帰した。
■岡島秀樹(日本ハム→レッドソックス→ソフトバンク→アスレチックス)
メジャーでの実働期間:6年(2007〜2011年、2013年)
266試合:17勝8敗/6セーブ/84ホールド/防御率3.09
独特な投球フォームでNPBのファンを沸かせた岡島秀樹は、2006年のオフにレッドソックスと契約。2007年のロイヤルズとの開幕戦では初球をスタンドに放り込まれ、ほろ苦いメジャーデビューとなった。
ただ、終わってみれば66試合に投げて、3勝2敗、5セーブ、27ホールドで防御率2.22と活躍。中継ぎエースとしてワールドシリーズ制覇にも貢献した。
2年目以降は、2.61、3.39、4.50と徐々に防御率が悪化していくが、それでも4年連続で50試合以上に登板するなど存在感をアピール。5年目は7試合の登板に留まったが、マイナーで34試合に登板するなど底力を見せたことで、一時はヤンキースからの誘いもあった。
フィジカルチェックで異常が見つかったためヤンキース入りは実現しなかったが、2012年はソフトバンクと契約しNPBに復帰。2013年は再びアメリカに飛んで、2014年に日本に帰ってきたというように(アスレチックス→ソフトバンク)、夢を追いながらも請われたところで投げるという、これまでの日本の選手にはなかった新しいキャリアを見せてくれた。
■井川慶(阪神→ヤンキース)
メジャーでの実働期間:2年(2007〜2008年)
16試合:2勝4敗/防御率6.66
2006年オフにポスティングシステムでヤンキースに移籍し、2007年に岡島から4日遅れでメジャーデビューを果たした井川慶。
阪神時代はシーズン20勝を含む5年連続2ケタ勝利を挙げた絶対的エースだっただけに、メジャーでどれだけの結果を残してくれるのかとプロ野球ファンは胸を踊らせた。しかし、まさかの2勝(3敗)止まり。中継ぎとして登板する姿は、悪夢を見ているようだった。
2年目は早々に構想外となってしまい、先発のチャンスも1度きり。そのチャンスも3回6失点と散々な結果に終わり、以降は中継ぎで1度登板しただけで、2012年にオリックスへ移籍するまでマイナーで過ごした。
実力はあったはずなので、柏田と逆でメジャー適性がなかったということか……。
■高橋建(広島→ブルージェイズ→メッツ)
メジャーでの実働期間:1年(2009年)
28試合:0勝1敗/防御率2.96
26歳でプロ野球デビューしたオールドルーキー・高橋建がメジャーに挑戦したのは2009年。40歳でのことだ。広島からFAでブルジェ―イズとマイナー契約。メジャーを目指したが、オープン戦で故障し、あえなく解雇されてしまった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。メッツとマイナー契約すると、傘下のトリプルA・バッファローでの好投が認められ、メジャー昇格を果たす。そして5月2日のフィリーズ戦にて、40歳でメジャーデビュー。日本人メジャーリーガーの最高齢記録であり、メジャーを見渡しても、第二次世界大戦以降では史上3位の記録だった。
そこからは降格と昇格を繰り返しながら28試合に登板。オフに解雇されてしまったが、広島ファンだけでなく多くのプロ野球ファンに夢を与えてくれた。
■高橋尚成(巨人→メッツ→エンゼルス→パイレーツ→カブス→ロッキーズ)
メジャーでの実働期間:4年(2010〜2013年)
168試合:14勝12敗/10セーブ/13ホールド/防御率3.99
2009年に巨人からFAし、マイナー契約ながらメッツに入団した高橋尚成。2010年の春季キャンプで13イニングを4失点と結果を残し、開幕前にメジャー昇格を勝ち取った。
4月7日のマーリンズ戦でメジャーデビューすると、1年目は先発、中継ぎ、抑えとあらゆる場面でフル稼働。メッツでは25年ぶりとなる新人での2ケタ勝利を達成するなど、10勝6敗、6セーブ、8ホールドと活躍した。
しかし、その年のオフに、メッツとの再契約が叶わなくなると状況が一変。2011年以降は3年で4球団を渡り歩くジャーニーマンに。巨人時代の高橋からすると想像しにくいが、それでもメッツ時代から3年連続で50試合以上に登板し白星も挙げるなど、自分の居場所を見つけて役目をまっとうしたと言えるだろう。
■和田毅(ソフトバンク→オリオールズ→カブス)
メジャーでの実働期間:4年(2012〜2015年)
21試合:5勝5敗/防御率3.36
2011年オフに、日本一を置き土産に海外FAでメジャーを目指した和田毅。ダイエーとソフトバンクの9年間で2ケタ勝利が7回という実績が、メジャーの打者にどう通用するかと期待されたが、移籍したオリオールズでヒジの故障に悩まされ、まさかの2年間メジャー登板なしに終わる。
このまま一度もメジャーのマウンドを踏まずに去ったら、ある意味で井川以上の不良債権になるところだったが、新天地・カブスで徐々に風向きが上向く。2014年の6月半ばにメジャー契約をつかむと、降格と昇格を繰り返しながらもローテーションに加わり、最終的に4勝(4敗)、防御率3.25という成績を残した。
翌2015年は再び故障続きで満足に投げられず、1勝を挙げるのがやっと。その年限りでソフトバンクに復帰した。しかしソフトバンクでいきなり15勝(5敗)を挙げたことを考えると、メジャーで活躍できなかったのは故障のせいといよりも、メジャー適性がなかったと見るべきか……。
こうして振り返ってみると、あらためて彼の地で成功することの難しさがわかる。しかしながら、難しいからこそ「我こそが」と挑戦したくなるのかもしれない。
もしも菊池がメジャーへ挑戦するとしたら、師匠の石井一久が成功していることを鑑みて、同じように羽ばたいてほしいと思うのだが……。それは西武ファンの欲目だろうか。
今回、日本人左腕メジャーリーガーの足跡を辿りながら、例えマイナーからでも這い上がろうとする気持ちは、挑戦したすべての左腕に共通する部分だと感じた。この謙虚な気持ちは、菊池も忘れずに持っていてほしい。
文=森田真悟(もりた・しんご)