北別府学氏の通算成績は213勝141敗。2012年には野球殿堂入りを果たしており、日本球界が誇る大投手だ。
1975年のドラフト1位で宮崎・都城農からカープに入団したが、ドラフト候補としては隠し玉中の隠し玉。インターネットが発達していない当時、甲子園に出場していない北別府氏は無名の存在だった。
しかし、北別府氏には天賦の才が備わっていた。剛速球も鋭い変化球もなかったが、柔らかさを遺憾なく発揮し、コントロールに磨きをかけまくった。
その「針の穴を通す」とまで言われたコントロールの逸話は半端ではない。審判の判定に疑問があるときは寸分違わぬ位置にボールを投げ込んで、審判を試すという制球自慢の投手にありがちなエピソードはもちろん、ホームベース上に3個並べた缶を3球で、しかもスライダー、ストレート、シュートの3球種で倒すといった離れ業もやってのけた。
現役当時の正捕手・達川光男は自身のブログで「ボール半個分じゃ失礼。ボールの縫い目ひとつ、半紙一枚分のミクロの勝負ができた」と語っている。
セ・リーグ審判部長を務めた田中俊幸も「北別府はほかの投手の倍疲れた」と語っている。
では、「精密機械」の名を冠し、1980年代の広島黄金時代を創出し、20世紀最後の200勝投手である北別府氏の背番号がなぜ永久欠番にならなかったのか……というと、広島独特の預かり番号制度があるからに違いない。
継承するに相応しい選手が現れるまで一時的な欠番にする制度で、野村謙二郎の「7」は堂林翔太が継承、現監督である緒方孝市の「9」は丸佳浩が継承し、北別府の「20」は永川勝浩が受け継いでいる。
ある意味では、広島という球団自体、カープ一筋の名選手が多すぎるため、すべての番号を欠番にすると使える背番号が極端に少なくなってしまうという裏返しのようにも感じる。
それでも、「北別府永久欠番待望論」は火種のまま残り続けていた。しかし、黒田の引退会見を受け、北別府氏がオフィシャルブログを更新。
「実は現役引退してから、私の背番号は欠番にはしてもらえないのだろうかという思いを抱えていたのは事実です。しかし! 昨日の黒田君の会見を聞き、喉にずっとつっかえていた小骨が取れたようなという表現しかできないのですが、広島カープで投手初の永久欠番は15番で良かったと心から思えた、私にとっても心に残る会見でした」
本心を包み隠さず語り、黒田の栄誉を称えた。北別府氏自身の言葉により、ファンの喉の小骨も綺麗に取れた歴史的瞬間だった。
永久欠番をめぐる気持ちを表明した北別府氏のオフィシャルブログはプロ野球ファンの間では有名な人気ブログになっている。
現役時代は寡黙な印象があった北別府氏だが、ブログではメディア出演時よりもさらに饒舌に、精力的に更新を続けている。
注目を集めているのは趣味である家庭菜園レポートだ。11月更新分だけでもシイタケ、柿、ブロッコリーが登場。さすが農業高校卒と言わざるを得ない本格的な菜園で、次は何が収穫されるのか楽しみで仕方ない。
さらには愛猫の画像や動画もアップする抜かりなさ。カープ論、野球論ももちろんあり、読者の心にピンポイントに当ててくる題材のチョイスはまさに「精密機械」。ブログ界でも殿堂入りを果たす勢いだ。
文=落合初春(おちあい・もとはる)