1982年にドラフト1位でカープに入団した津田。当初は先発ローテーションの一角として期待されており、ルーキーイヤーから11勝をマーク。球団史上初の新人王に輝いた。しかし、翌年以降はルーズショルダーや中指の血行障害に悩まされ、表舞台からは一旦姿を消した。
復活を遂げたのは5年目となる1986年。背番号が15から「14」に変更となったこの年から、本格的に「抑え」を襲名。4勝22セーブ、防御率2.08の好成績を残し、チームの優勝に貢献。バネの利いたフォームから繰り出す速球は150キロ前後をたたき出した。
三冠王を獲得したバース(阪神)をして「津田はクレイジーだ」と言わしめ、原辰徳(巨人)と対戦すれば、ファウルを打った原の左手の有鉤骨を粉砕させ完全勝利。いつでも真っ向勝負で向かっていく津田のピッチングには胸がすく思いがした。
「炎のストッパー」の異名をとり、すっかり抑え投手としての地位を確立した津田。1989年には12勝5敗28セーブ、防御率1.63と獅子奮迅の活躍。最優秀救援投手を受賞した。この時29歳と、まだまだ働き盛りであった。
絶頂期を迎えた津田に異変が見られたのは1990年のシーズンオフ。頭痛など体の変調を訴え、翌1991年に入っても不安が続いた。そしてこの年の4月14日、広島市民球場で行われた巨人戦でのマウンドを最後に、津田はグラウンドから姿を消した。
当初は球団側が「水頭症のため引退」と発表するも、これは混乱を避けるための措置であることが判明。本当の症状は悪性の脳腫瘍だった。
津田はあふれ出る不安を必死にかき消しながら闘病生活を送り、一時は現役復帰に向けたトレーニングに励む時期もあった。しかし、再び症状が悪化。1993年7月20日、津田の32年の短い人生に幕が下された。
津田の死後、背番号「14」を着ける選手は何人か現れた。そのなかで「津田と姿がダブる」といわれるのが現在の「14」番・大瀬良大地だ。
2013年、九州共立大からドラフト1位でカープに入団。大学時代から日本代表に名を連ねるなど、本格派右腕として大きな期待を背負ってきた。1年目に先発として新人王を獲得。2年目以降はケガもありリリーフ中心に回っているのは、奇しくも津田と似たようなキャリアの歩み方を見せている。
シーズン終了後に墓前へ足を運んでいることや、故人の故郷・山口県周南市にある津田恒実メモリアルスタジアムへ「いつか行ってみたかった」と発言していることから、大瀬良は津田のことをリスペクトしているのは間違いない。
津田の最後のマウンドから今年で25年。カープは順調にマジックを減らし、優勝に手が届く位置にいる。故人の魂を受け取った大瀬良が歓喜の輪に加わるのもそう遠い未来ではない。