広島東洋カープの2014年の戦いが終わってしまった。敗因は多々あるだろうが、やはり「左腕不足」は検証すべきテーマだ。かつての広島といえば、絶対的な左腕投手の存在がチーム浮沈の鍵を握っていた。その礎を築いた男こそ、江夏豊と大野豊、2人の豊だ。広島投手陣にエールを送る意味も込めて、改めて「カープ左腕伝説」を紐解いてみよう。
江夏豊が広島に在籍したのは1978年から1980年のたった3年間。だが、その存在はとてつもなく大きかった。特に、1979年と1980年の日本一連覇は、2年連続で最優秀救援投手賞にも輝いた「ストッパー江夏」の力がなければ成り立たなかったはずだ。
元々大野は、江夏の大ファンだった。社会人時代(軟式野球の出雲信用組合)は阪神の江夏豊にあやかって背番号「28」をつけていたほどの憧れの存在だった。
そんな憧れの人が、毎日の練習の中でヒザのタメやステップする足、腕の振りなどを細かくチェックし、的確なアドバイスを送ってくれる。これで意気に感じないわけがない。
マンツーマン指導の中で、もっとも大事なこととして江夏から指摘されたのが「キャッチボールの重要性」だった。キャッチボールが確実にできないようではピッチャーは務まらない。自分のフォームで全身を使いながら行うキャッチボールの継続が、ブルペンや試合でのピッチングにも生かされていく、というのが江夏の考え方だ。そのため、キャッチボールを疎かにすることは許されず、一度だけヒジの痛みを気にして中途半端な球を投げた際には、江夏を激高させてしまったこともあるという。
こうして、江夏による日々のフォームチェックとキャッチボールを徹底的に繰り返したことで、大野の場合は特に制球力が安定。2年目の1978年は登板41試合で3勝1敗、防御率3.75と、前年の数字から大きくステップアップを果たした。1979年は登板58試合で5勝5敗2セーブ、防御率3.84。1980年は49試合に登板して7勝2敗1セーブ。リリーフエース・江夏につなぐ貴重な中継ぎ投手として、1979年と1980年の日本一連覇に大きく貢献したのだ。
大野は、自著『カープ“投手王国”再建へ』の中で、江夏への感謝の言葉を綴っている。br>
《思えば、ともに過ごした日々はわずか3年間でしたが、私にとっては本当に濃密な3年間でした。技術面にとどまらず、精神面に至るまで、ピッチャーとしての基礎を一から叩き込んでもらいました。
あの出会いがなかったら、今の自分があったかどうか──。
1年で終わってもおかしくなかった私のプロ野球人生が、その後21年もの間続いた要因の1つが江夏さんとの出会いであることは、言うまでもありません。
我が師、江夏さんには感謝してもしきれません》br>
その後、1981年に江夏豊は日本ハムに移籍。その移籍先でもリリーフエースとして活躍し、ファイターズのパ・リーグ制覇に貢献。「優勝請負人」の名をほしいままにした。
一方の大野豊は、1981年から江夏の後任としてリリーフエースに抜擢された。だが、さすがにまだ江夏のような盤石の結果を残すことはできなかった。その後、1984年からは先発に転向し、最多勝を獲得するなど広島の屋台骨を支え続けた。1991年からは再びリリーフに転向。1991年には最優秀救援投手に輝き、カープのリーグ制覇に大きく貢献した。
この1991年の優勝以降、カープは一度もペナントを制覇できていない。江夏豊、大野豊の系譜を受け継ぐ、絶対的な左腕エースの存在こそ、カープ優勝へのラストピースではないだろうか?
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『野球次郎VOL.1 広島東洋カープ大事典』が現在発売中だ。本稿で取り上げたような、江夏豊と大野豊のそれぞれの詳しいエピソードはもちろん、現在に至る左腕不足の考察、1979年日本シリーズで生まれた『江夏の21球』の特別掲載など、広島東洋カープ誕生から現在までを完全網羅した究極の一冊だ。来季の戦力分析や補強ポイントの考察にも愛用できる完全保存版としてオススメしたい。