高校野球100年、戦後70年など、野球界としても、社会としても、下1桁が5の年は特別な区切りにあたることが多い。その中で、ちょうど30年前の1985年は、野球界において大きな転換期を迎えた。巨人から長島茂雄、王貞治が1980年に去りし後、阪神が初の日本一に輝いた。現在に続いている、巨人中心のプロ野球から変化していく大きな一歩だった、ととらえることができる。
そして、高校野球界では一時代を築き、その後のプロ野球界を背負うスターが誕生した。そのスターとは、当時PL学園の桑田真澄と清原和博だ。1年生だった1983年夏、桑田はエースとして、清原は4番打者として、全盛期だった“やまびこ打線”の池田を破り、優勝に貢献。2人の活躍は高校野球ファンに大きな衝撃を与え、以後2年間の甲子園の話題を総ナメにした。
1984年春夏は連続準優勝。最終学年となった1985年春は準決勝で伊野商に敗れ、ベスト4に終わる。本来は5季連続で甲子園に出場することでさえも、めったにできない素晴らしい記録である。しかし、桑田・清原の「KKコンビ」にかかれば、唯一、甲子園で決勝戦に進めなかった物足りない大会、と表現したくなる錯覚にかられてしまう。それほど、KKコンビとPL学園は強烈な存在だった。その強烈さは、捲土重来を期して臨んだ最後の夏、甲子園で再び思い知らされた。
1985年夏、大阪大会を勝ち抜いたPL学園の甲子園初戦は大会7日目、2回戦の東海大山形戦だった。ここでPL学園はその強さを見せつけた。
初回に2番・安本政弘が先制本塁打を放つなど2点を先取すると、2回には5点、3回には4点とその攻撃力を見せつけ、5回を終え20−1と圧倒。終盤になってもPL打線は手を緩めず7回に5点を奪うなど、結果的に毎回得点を記録し、29−7という野球の試合か? と思わせるスコアで初戦を突破した。
もちろん、29得点、32安打は今でも破られない大会記録。ただ、ここまで得点すると、さぞ長打連発だったのだろうと思うが、32安打中24安打が単打だった。大味な展開になってしまっても、そこまで大味な野球にならなかったことが、いかにPL学園が強かったかを表している。
続く3回戦の津久見戦に3−0で勝利したPL学園は、準々決勝で好投手・中山裕章(元大洋ほか)を擁する高知商と対戦した。最大のハイライトとなったのは4−2で迎えた5回裏、PL学園の攻撃だ。この大会でまだ本塁打のなかった清原は、カウント2−2からのストレートを強振。推定飛距離140メートルとも言われる打球はレフトスタンドに飛び込む特大の本塁打となった。この後、桑田にも本塁打が飛び出し、6−3で勝利する。
準決勝の甲西戦では5回、7回に清原が2打席連続本塁打を放つ。主砲・清原に引っ張られた打線は15点を奪い、3年連続の決勝戦進出を果たした。
8月21日の決勝戦。PL学園と向かい合った相手は、ここまで4本塁打をマークしているスラッガー・藤井進を擁する宇部商。
試合はまず2回表に宇部商が先制するが、PL学園は4回裏に清原の同点弾で追いつく。さらに、5回裏に内匠政博(元近鉄)のタイムリーで勝ち越す。しかし、直後の6回表、桑田は宇部商打線に捕まって2点を失い、2−3と再びリードを許してしまった。ここまでずっと投打で圧倒してきたPL学園だったが、シーソーゲームとなる苦しい展開。
この窮地を救ったのはやはり清原だった。6回裏1死で打席を迎えた、その2球目。宇部商・古谷友宏の投じた高めのストレートを振り抜くと、打球はセンターを守る藤井を越え、左中間スタンドへ。再び同点となるこの一発は、大会記録となる5本塁打、そして甲子園通算13本目の本塁打(歴代1位)となった。この一発に、実況をしていた朝日放送・植草貞夫アナウンサーは「甲子園は清原のためにあるのか!」という名文句を残す。
試合はその後、互いに譲らぬ展開となり、同点のまま9回裏に入った。2死二塁とPL学園がサヨナラのチャンスを迎えると、主将・松山秀明が右中間を抜ける、2年ぶりの全国制覇をもたらすサヨナラ打を放った。この試合の勝利で桑田は甲子園通算20勝という戦後1位となる大記録を打ち立てた。
この秋、プロ野球ドラフト会議で清原が西武、桑田が巨人に入団する。その4年後の1989年には、青山学院大へ進学した松山がオリックスへ、明治大へ進んだ今久留主成幸が大洋へ入団する。さらに1992年秋には、近畿大〜日本生命と進んだ内匠が近鉄へ入団。KK世代のPL学園からは最終的に5人がプロ入りした。
KKコンビが特に目立っていたものの、その後、プロに指名された選手も多く、チーム全体としても高いレベルで、走攻守に非の打ち所がないチームだった。ただ、その強さは「勝って当然」という多大なプレッシャーも同時に生んでいたに違いない。強い精神力があったからこそ、成し遂げられた伝説だった。