1994年、茨城県結城郡千代川村(現下妻市)で生まれた大山。高校まで野球をしていた父の影響を受け、宗道ニューモンキーズで野球を始めた。
中学時代は千代川中の軟式野球部で汗を流し、Kボール「オール茨城」に選抜されると全国大会で3位に。高校はつくば秀英高に進学し、2年夏には茨城大会で8強入り。
最後の夏は、140キロオーバーの本格派、且つ、高校通算30本塁打のスラッガーとして注目されたが、初戦で敗退。藤浪晋太郎(大阪桐蔭高→阪神)ら同級生が出場していた甲子園を、違う世界の出来事にように感じていたという。
そんななか、関甲新学生野球リーグに所属する白鴎大に進むと転機が訪れる。黒宮寿幸監督(2015年まで助監督)との出会いだ。
より厳しい環境で野球をやりたいという大山の気持ちを感じ取った黒宮監督は、自身でも「理不尽」というほどの厳しさで大山に接していく。しかし大山には、黒宮監督の厳しさを“情熱”として受け入れる素直さがあった。
入学直後から三塁手のポジションを与えられると、期待に応え、すぐさまベストナインを獲得。以降も、黒宮監督の指導により大山は才能を開花させていく。
白鴎大では監督だけでなく、チームメイトにも恵まれた。
その1人が同期の外野手・龍幸之介。龍は九州国際大付高時代に甲子園で本塁打を放った経験があり、大山もその活躍をテレビで見ていた。チームメイトになってみると、龍の練習量はずば抜けていた。自分よりもずっとうまい選手が、ものすごい量の練習を積んでいる。その事実に大きな刺激を受けた大山は、それまで以上に自主練習に取り組むようになった。
また守備では、大山と三遊間のコンビを組んでいた1学年上の堀米潤平(東芝)に大きな影響を受けた。ヒットと思った打球が、堀米にかかるとアウトになる。「なぜ、そこを守っているんだろう?」と、ポジショニングの重要さを考えるようになり、守備でも成長を遂げた。
そして迎えた2016年、ドラフトイヤーに大山は大爆発した。
まず春季リーグでは、8本のアーチをかけてリーグ最多本塁打記録を達成、打率も4割を超えた。
その後、侍ジャパン大学代表の選考合宿に参加。後のドラフトで指名される好投手たちを相手に打ちまくり、猛アピール。代表メンバーに選ばれ、7月の日米大学野球では当然のように全試合で4番に座った。
結果は5試合で2安打だったものの、日の丸の重みも大山の成長を加速させたことは間違いない。
こうしてプロ野球選手への階段を上ってきた大山。ドラフト会議では全体の6番目、本人を含め誰もが予想していなかった阪神のドラフト1位として名前が読み上げられた。
大学4年間で1度もリーグ優勝できず、全国大会も未経験。しかも、昨年のドラフト戦線は“投手豊作”だったため、大山の1位指名には疑問の声も聞かれた。しかし、彼がたどってきた道を振り返ると、この順位には、なんら不思議はないように思えてくる。
プロから最高の評価を獲得するまでに至った大学時代の急成長は、大山自身の努力はもちろん、黒宮監督を始めとした周囲のサポートがあってこそ。
阪神でも、持ち前の“素直な吸収力”で金本知憲監督やコーチ陣の熱心な指導をものにして、急成長を遂げる気がしてならない。
(※本稿は『野球太郎No.021』に掲載された「28選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高木遊氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。『野球太郎No.021』の記事もぜひ、ご覧ください)
文=森田真悟(もりた・しんご)