今から29年前の1988年、日本初の屋根つき球場となる東京ドームが開場した。公式戦最初の試合となったのは巨人対ヤクルトの開幕戦。注目は「誰が東京ドーム初本塁打を打つか」だった。巨人の主砲・原辰徳か、オープン戦で東京ドーム初本塁打を放っている吉村禎章か、それともクロマティか……。
その初本塁打は巨人からではなくヤクルトから生まれた。0対0で迎えた2回表、ヤクルトの4番打者・デシンセイは巨人の先発・桑田真澄のボールをレフトスタンドにアーチをかける。デシンセイにとって、日本球界初打席初本塁打、そして東京ドームの公式戦で初本塁打というおまけつきだった。
デシンセイはメジャー時代にはオリオールズ、エンゼルスで活躍。オールスター・ゲームにも出場した実績十分の選手だった。当時は37歳。全盛期よりは衰えたとはいえ、前年に活躍したホーナーに代わるヤクルトの新4番として期待されていた。
デシンセイはその後、6月15日の巨人戦、18日の広島戦と2試合連続でサヨナラ弾を放ち、勝負強さを発揮。しかし、終盤はスタメン出場がなくなるなど出場機会が減少し、打率.244、19本塁打の成績でユニフォームを脱いだ。
阪神大震災が起こった1995年、パ・リーグでは2人の外国人選手が開幕から躍動した。1人は、この年ダイエー(現・ソフトバンク)に入団したミッチェル。ジャイアンツ時代には二冠王を獲得し、ナ・リーグMVPにも輝いた大物メジャーリーガーだった。
その片鱗は西武との開幕戦でいきなり発揮された。1回表、無死満塁のチャンスで打席に入ったミッチェルは、西武の先発・郭泰源から本塁打を放ち、初打席で満塁弾というド派手な日本球界デビューを飾る。
以降、ミッチェルはダイエーの4番打者として出場していたが、5月に故障で一時アメリカへ帰国。7月下旬には再びチームへ合流したが、8月に球団に無断で帰国して解雇されてしまった。わずか37試合の出場に終わった。
そして、もう1人は近鉄の左打者・スチーブンス。前年に近鉄へ加入していたスチーブンスはブライアント、石井浩郎とともに「いてまえ打線」の中軸を形成。打率.288、20本塁打とまずまずの成績を残した。
2年目となったこの年、スチーブンスは4月7日のロッテ戦でシーズン第1号を放つと、その打棒が冴え渡り、リーグタイ記録となる6試合連続本塁打を達成。4月だけで10本塁打を放ち月間MVPを獲得する。「このままのペースでいけば、日本記録のシーズン55本塁打更新も夢ではない」と思われたが、5月以降はペースが落ち、最終的には23本塁打にとどまった。
スチーブンスはこの年限りで近鉄を退団。アメリカへ戻りレンジャーズ、エクスポズでプレー。1997年からは5年連続20本塁打以上と活躍した。
2004年、ロッテに入団したのが前年に韓国プロ野球でシーズン56本塁打を放った李承?(2006年に巨人、2011年にオリックスに移籍)。そのデビュー戦となった3月27日の開幕戦では、第1打席で西武の松坂大輔からタイムリーを打ち、初打席初安打初打点をマークする。
さらに4月4日、本拠地・千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)でのダイエー戦では、4回裏に新垣渚が投じた高めのストレートを振り抜く。打球はライトスタンドを大きく越える場外ホームランに。来日初本塁打は超特大の一発だった。
しかし、この年は日本の投手にうまく対応できず、打率.240、14本塁打と大きく期待を裏切ることに。それでも、翌年以降は3年連続30本塁打以上と結果を残した。
文=武山智史(たけやま・さとし)