メジャーリーガーになる、という夢は叶わず、今季から日本球界に復帰した中島裕之(オリックス)。悔しい気持ちはもちろん、「出戻り」ということへの後ろめたさや、恥ずかしさもきっとあるはず。だからこそ、今季の中島には期待をした方がいい。これまでもずっと、逆境をバネに成長をしてきた男だから。
中島裕之は高校時代、甲子園には出場していない(ただし、兵庫県出身のため、甲子園球場で試合はしていた)。もちろん、中島だって甲子園に出たかったはず。その証拠に、中学時代の進学希望先は甲子園の常連校・報徳学園高。ところが受験に失敗し、滑り止めだった兵庫県立伊丹北高に進学することになる。
そして、1年夏の県大会2回戦で対戦した相手こそ、自分が行きたかった報徳学園高。この試合に「1番・ライト」で出場した中島は、試合開始のサイレンが鳴り終わらない初球を叩き、センター前ヒットで出塁する。自分が憧れた相手にも臆することなく、初球から攻めていく積極性はこの頃から既に備わっていたのだ。
結局、高校3年間での甲子園出場は敵わなかった中島。だが、理不尽な上下関係がなく、のびのび練習できる環境だったからこそ、中島はその才能を大きく伸ばすことができ、スカウトの目にも止まったのだ。
2000年のドラフトで西武から5位指名を受け、プロ入りを果たした中島。求められたのは、松井稼頭央(現楽天)の後釜として「攻撃的なショート」になること……もちろん、それは「期待の表れ」なのだが、当時の中島にとっては大きすぎる壁だった。なぜなら、高校時代に守ったポジションは投手と外野のみ。ショートはおろか内野の経験もなかったからだ。
実際、最初の1年間はファームの試合にすら、なかなか出ることは叶わず。たまに試合に出ても、ゴロを捕っただけでベンチから拍手が起こる有様で、まさにド素人同然の評価だった。
だが、西武には「どんなことをしても中島を育てる」という信念があった。2年目(2002年)にファームで全試合出場を果たすと、10月には1軍戦にも出場。高校時代同様、初打席で初安打を記録するという、強心臓ぶりを発揮する。
そして、松井稼頭央が抜けた2004年、ショートのレギュラーとしてフルイニング出場を果たす。中島が幸運だったのは、この年から監督が伊東勤(現ロッテ監督)に代わっていたことだ。
チームの主軸が抜けて、若返りが急務で、失うモノがない新人監督……このシチュエーションだったからこそ、中島はエラーをしてもヘマをしても、試合に出続けることができたのだろう。しかも、西武はこの年、リーグ2位ながらポストシーズンを勝ち抜き、日本一を達成。育ててもらいながら日本一を達成するという、最高の経験値を積むことに成功する。
以降、着実に成長を遂げた中島だったが、「日本で一番のショート」と呼ばれるまでにはまだ壁が立ちはだかる。大一番での「結果」や「実績」が乏しかったからだ。
だが2008年、北京五輪代表に選ばれた頃から更なる成長曲線を描き出す。この年、自身初のタイトル「最高出塁率」を勝ち取ると、ベストナインとゴールデングラブ賞もW受賞。そして2009年、第2回WBCでは打率と出塁率でチーム1位の好成績を残し、2番打者ながら打点もチーム3位。この圧巻のパフォーマンスで、日本の大会2連覇に大きく貢献したのだ。
プロ入り以来「ヘタクソ」を自認して、上を向き続けたからこそ壁を乗り越えることができた中島。日本を代表するショートとして世界の舞台を経験した先に「より高いレベルでプレーしてみたい」とメジャーを目指すのは必然だった。そして、ここからまた、中島の新たな苦悩が始まる。
2011年オフ、ポスティングによるメジャー挑戦を表明した中島。ニューヨーク・ヤンキースが交渉権を獲得したものの、条件面で折り合わず、最終的には西武に残留することになる。この顛末に、驚きとともに「日本人ショート」への評価の低さに対して、落胆の声が一部から漏れ聞こえた。
そんな外野からの声に対して、中島はこんな言葉を残している。
《いいように言ってくれる人もいるだろうし、悪いように言う人もいるやろうけど、一生懸命やる。チームのために、日本一になるために、ベストを尽くす》
その宣言通り、6月には自身初となる月間MVPを獲得。シーズン後半に左脇腹痛で数字を落としてしまったが、打率、安打数でリーグ2位という好成績を残した。ポスティング宣言をしながら移籍しなかった(できなかった)という屈辱のシーズンだったからこそ、誰もが納得する成績でその実力を見せつけたのだ。