無欲。
西口のプロ生活を一言で表すと、この言葉がしっくりくる。
どんな好成績を挙げても渋ることなく契約更改を済ませ、メジャーリーグ移籍について聞かれれば「食事が口に合わない」と突っぱねるなど、俺流エピソードには事欠かない。
特に契約更改に至っては、「西口さんがその額でハンコを押してしまうと、意見を言いにくくなる」と、若手選手から苦言を呈されたほどだ。
埼玉西武ライオンズ一筋21年で、積み上げた182個の白星は、西口が無欲だったからこそ挙げられたものと思える。ただ、そんな西口にも欲を垣間見せた瞬間があった。それを彼のプロ生活とともに振り返ってみたい。
和歌山商業高から立正大を経て、1994年に埼玉西武ライオンズからドラフト3位で指名された西口。1年目は、5月半ばからアメリカの独立リーグに野球留学したこともあり2勝に留まったが、野球留学での活躍が、翌年からの大爆発につながっていく。
2年目の16勝を皮切りに、7年連続の二桁勝利。その内2年で最多勝を獲得するなど、順風満帆を絵に描いたようなプロ野球人生。9年目となる2003年のシーズンは、右足のケガにより二桁勝利を逃すものの、翌年・翌々年と再び二桁勝利を達成。
1998年に松坂大輔が入団してからも、「日本のエースは松坂大輔。ライオンズのエースは西口文也」と評され、その地位は不動のものになっていた。
そして11年目のシーズンが終わったところで、挙げた勝ち星は133勝。この時点では誰もが200勝を疑わなかったはずだ。
順調に勝利を積み重ねていった西口だが、その間、ある記録に挑む機会があった。
ノーヒットノーランと完全試合である。
前者は2回あり、いずれも9回2アウトまで抑えながら、最後の一人に痛打を浴びて夢を絶たれた。後者は、楽天打線に対し9回終了までパーフェクトだったものの、味方打線が一場靖弘の前にまさかの沈黙。そして延長戦、楽天の沖原佳典にヒットを打たれ、ここでも快挙ならず。
何かに取り憑かれているかのように、大記録に手が届かない。引退会見でも述べていたように「達成したい記録」だった。これが「欲その1」。それだけに普段は欲を見せない西口も、さすがに堪えたのだろう。翌年から、徐々に成績が下降し始める。
5年連続で二桁勝利を逃し、ピーク時は3億円だった年俸も、気づけば1/5まで下がった。
先発陣も涌井秀章、岸孝之などコマが揃っていたこともあり、投げれば打たれるというベテランに、チャンスはなかなか巡って来なかった。
200勝間違いなしと思われながら、足踏みを続けていたかつてのエースだが、2011年に突如復活を遂げる。前半戦こそ4勝6敗と負けが先行したが、7月以降は7勝1敗と大幅に勝ち越し、最終的に11勝7敗で、6年ぶりの二桁勝利を達成。
またこのシーズンは、
・自身のシーズン最高防御率を記録
・自身が持っていた先発登板連続無完投記録を、102試合でストップ
・クライマックスシリーズ進出がかかった最終戦で、8回140球を投げて勝利投手に
など、内容的にも充実したものとなった。
この人が変わったような結果が、「欲その2」。西口自身がどこまで考えていたかは分からないが、いくら欲のない人間でも、完全試合を逃し、200勝までも手に入れられずに引退という現実が辛くないはずがない。
「絶対に、200勝を達成する」。
11勝という数字からは、そんな叫びが聞こえてくるようだった。